ナバラ王国の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 05:24 UTC 版)
1833年スペイン地方行政区分再編ではスペイン全土に49県が設置され、ナバラ地域にはナバラ県のみが設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名し、旧来のフエロが廃止されてスペイン憲法の枠組みによるフエロの再編が行われた。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が勃興した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。1872年から1876年の第三次カルリスタ戦争中では再びカルリスタ勢力が敗北。1876年7月21日法はスペイン国家に対する兵役や納税などを規定しており、事実上フエロが撤廃された法律と解釈されている。1877年には一般評議会と特権議会が廃止され、バスク地方全域のスペインへの統合が完了した。 1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダ(スペイン語版)と呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(英語版)(4つは1つ、スペイン・バスクの4県の統合を目指す考え方)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。 絶対主義勢力がカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域ではバスク民族主義が台頭したが、ナバラでは状況が異なった。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮している。 第二共和政下(1931年-1936年)の1931年には地域自治を認める共和政憲法が議会で承認されたため、バスク地方では1932年にはバスク自治憲章案が各自治体代表者の投票にかけられたが、ナバラでの支持率はスペイン・バスク4地域でもっとも低く50%以下であり、1933年にはナバラを分離した自治憲章草案が共和国議会にかけられた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた。 1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、北部方面司令官だったエミリオ・モラ(スペイン語版)将軍の下でナバラ県は即座に反乱軍の支配下に置かれた。その初期にはナショナリスト派の強硬派によってテロ活動が相次ぎ、共産主義者などがテロの対象となった。第二共和政期には反教権主義が広まったが、フランコは共和国政府とは対照的にカトリック教会を擁護したため、カトリック教会はフランコ率いるナショナリスト派を「十字軍」とさえ呼んだ。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、聖職者らは自発的に謀略に加担した。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。バスク民族主義者はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長でありCAオサスナの共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。
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