マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)の意味・解説 

マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 13:59 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
マドレーヌ・ド・フランス
Madeleine de France
ビアナ公妃

出生 (1443-12-01) 1443年12月1日
フランス王国トゥール
死去 (1495-01-21) 1495年1月21日(51歳没)
ナバラ王国パンプローナ
埋葬 ナバラ王国、パンプローナ大聖堂
配偶者 ビアナ公ガストン・ド・フォア
子女 フランシスコ1世
カタリナ
家名 ヴァロワ家
父親 フランス王シャルル7世
母親 マリー・ダンジュー
テンプレートを表示

マドレーヌ・ド・フランス(Madeleine de France)またはマドレーヌ・ド・ヴァロワ(Madeleine de Valois, 1443年12月1日 - 1495年1月21日)は、フランスシャルル7世と王妃マリー・ダンジューの娘。

生涯

フランス中部のトゥールで生まれる。若くしてハプスブルク家当主を継いだボヘミアハンガリーの王およびオーストリア公であるラディスラウスと婚約したが、ラディスラウスは1457年白血病で早世した。その後、1461年フォワガストン4世ナバラ王女レオノールの長男ビアナ公ガストンと結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。

夫ビアナ公は1470年に死去し、義父ガストン4世は1472年に死去した。1479年にはアラゴンとナバラの王であったレオノールの父フアン2世が死去し、ナバラ王位を継いだレオノールもわずか3週間余りで死去した。マドレーヌの息子フランソワは祖父の死後にフォワ伯を、祖母の死後にナバラ王を継承することになったが、若年のためマドレーヌが摂政となった。しかしフランソワも1483年に早世し、その妹カトリーヌが継承者となったため、マドレーヌは引き続き1494年まで摂政を務めた。その間、亡夫の弟ナルボンヌ子爵ジャン・ド・フォワ(アラゴン王妃ジェルメーヌとフランスの将軍ヌムール公ガストンの父)が継承権を主張した。

1494年、マドレーヌはナバラの獲得を狙うアラゴン王フェルナンド2世(レオノールの異母弟)の人質となり、翌1495年にパンプローナで死去した。マドレーヌの死はナバラにおける新たな争乱の火種となった。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)」の関連用語

マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS