スルタンの称号、後継者問題
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「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の記事における「スルタンの称号、後継者問題」の解説
イルトゥトゥミシュは1220年代よりアッバース朝と通好しており、1229年2月にデリーを訪れたバグダードからの使節団より、スルタンの称号と支配権を承認された。1232年頃にデリーで発行された硬貨には、アッバース朝のカリフ・アル・ムスタンスィルがスルタンの地位を認めた事を記念した言葉が刻まれた。以後デリー・スルタン朝で発行された価値の高い硬貨には、カリフの権威を認める文言が刻まれることになる。 1229年に後継者と目されていた長子のマフムードが早世し、イルトゥトゥミシュは王位の継承にあたって息子たちの中に後継者にふさわしい人物を見いだせずにいた。彼は娘のラズィーヤを後継者とすることを腹心の貴族と神学者に諮り、貴族から一応の賛同を得て同年にラズィーヤを後継者に指名した。 1236年4月29日にイルトゥトゥミシュはデリーの宮殿で崩御するが、彼が生前に遺した指名は実行に移されなかった。廷臣と正妃シャー・トゥルカーンは、ラズィーヤではなくルクン・ウッディーン・フィールーズをスルタンに擁立したのである。ラズィーヤがスルターンに即位したのは、ルクン・ウッディーンの短い治世の後のことである。
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