天保の改革と江戸落語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 20:10 UTC 版)
寛政から文政にわたって長らく隆盛をほこった江戸落語であったが、水野忠邦による天保の改革の一環として風俗取締令が発せられたことによって大打撃を受けた。幕府は寄席で女浄瑠璃(のちの娘義太夫)がおこなわれていることなどを問題視し、天保13年(1842年)2月、由緒ある15軒以外の寄席を禁止し、寄席で興行してよいのは神道講釈・心学・軍書講釈・「昔咄」(いまの落語)だけとした。これにより、200軒以上に増加していた江戸の寄席は一挙に15軒に激減した。 しかし、水野失脚後は禁令がゆるみ、開国期にあたる安政年間(1854年 - 1860年)には江戸市中の寄席は170軒におよんでいる。寄席興行が許されたのは依然として上記の4種類のみであったが、実際のところ、明治期に実業家として活躍した鹿島萬兵衛の回想によれば、幕末の寄席は江戸の各所にあって、「講釈の定席あり、落語及び色物と称へ、音曲、八人芸、足芸、手品、写絵、男及び女義太夫、新内節、手踊、芝居話」など多様な芸能がおこなわれていたと証言されており、禁令は必ずしも厳守されていなかったことを物語っている。 一方、寄席が専業化して常時興行がなされるようになると、そこでは様々な慣習が生まれていった。天保から嘉永(1848年-1854年)にかけて、15日興行や前座・真打の身分制が定着し、続きもの人情噺のトリがとれなければ真打に昇進できないという不文律も生じている。
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