天保の改革における札差仕法改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 09:19 UTC 版)
「札差」の記事における「天保の改革における札差仕法改正」の解説
棄捐令で札差借金の棒引きを命じてから53年、化政期を経て札差は再び隆盛し、旗本・御家人たちの借金は寛政の頃と同じかそれ以上に増大していた。 天保の改革における株仲間解散の約半年後の天保13年(1842年)8月、当時の札差91人は連盟して、自ら貸金の公定利率年12パーセントを、10パーセントに下げたいと願い出た。この願い出は容認されたが、町奉行所から「個別に年賦などに契約更改した借金などは、無利子・永年賦などにして、蔵米取の武士が差支えないように取計らうように」という注文を受けることになってしまった。 さらに、翌14年(1843年)5月には、地方知行の旗本・御家人が、年貢を担保に前借りしている公的金融機関、郡代貸付金の借金を、半分棄捐、半分無利子・年賦、と大幅に軽減する御触が出された。札差としては、地方知行者が受けたと同じような有利な措置を、蔵米取の旗本・御家人に対して考慮しなければ不公平と非難されるため、同年9月に札差達は、また自らの仕法改正を願い出る。それは、6年前までの貸付で、すでに個別に公定の利子より安くし年賦などにしている分は無利子とし、知行100俵につき5俵ずつの返済(原則は20年賦)とする。5年前以後の貸付についても軽減するという内容である。 これらの申し出は、札差から幕府に対する恭順の意であり、自分達の稼業を改革の矛先からそらすための申し出であったが、天保14年12月14日に発令された無利子年賦返済令は、これまでの未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済は原則として20年賦とするという厳しいものであった。この法令の発布後、札差(当時91軒)の半数以上にあたる49軒が閉店してしまった。 幕府はこれに対し、札差に2万両の資金貸下げをし、当時の有力な札差達に仲間内に融資をはかるよう諭し、御用達商人15人に新たに札差を開業するよう命じた。閉店を宣言した49軒の札差のうち38軒が再開店したが、新規に開業した者は5人にとどまった。
※この「天保の改革における札差仕法改正」の解説は、「札差」の解説の一部です。
「天保の改革における札差仕法改正」を含む「札差」の記事については、「札差」の概要を参照ください。
- 天保の改革における札差仕法改正のページへのリンク