天保の内訌と松平家碁会とは? わかりやすく解説

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天保の内訌と松平家碁会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 08:02 UTC 版)

本因坊丈和」の記事における「天保の内訌と松平家碁会」の解説

名人昇格の際、丈和は不透明な陰謀めぐらしたため後に禍根を残すになった文政11年(1828年)に名人碁所願を提出し安井知得仙知宅で家元同職会議が行われる。席上仙知は時期尚早主張し、丈和の1月遅れで八段になっていた井上幻庵因碩との争碁を勧めるが因碩は受けず、仙知が争碁を打つことになり寺社奉行から許可を得る。しかし仙知の病気などで日程が決まらず、因碩が争碁願を提出、仙知の裁定2、3待って争碁を行うこととしたが、天保2年突如丈和が名人碁所任命される。この急な任命理由不明だが、林元美が丈和から八段昇段約束得て出身である水戸藩隠居「翠翁公」を通じて寺社奉行働きかけたとの見方がある。 天保6年(1835年)に浜田藩家老安井家門人(二段)でもあった岡田頼母老中松平周防守碁会勧め松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組む。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子赤星因徹を丈和に挑ませる。もしこの対局赤星勝てば、丈和に名人資格無しとして公儀訴え出る算段であった赤星実力確かなもので、いったんは優勢に持ち込むが、丈和は有名な丈和の三妙手」を放ち赤星下した。この対局中赤星は血を吐きその後26歳死去ここからこの一局を「吐血の局」と呼ぶ。これにより因碩の野望砕いたものの、林元美八段昇段内約破ったことの訴えなどがあって、天保10年(1839年)に碁所返上して引退。元丈の子である丈策に家督譲った

※この「天保の内訌と松平家碁会」の解説は、「本因坊丈和」の解説の一部です。
「天保の内訌と松平家碁会」を含む「本因坊丈和」の記事については、「本因坊丈和」の概要を参照ください。

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