天保の内訌と松平家碁会
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「本因坊丈和」の記事における「天保の内訌と松平家碁会」の解説
名人昇格の際、丈和は不透明な陰謀をめぐらしたため後に禍根を残す事になった。 文政11年(1828年)に名人碁所願を提出し、安井知得仙知宅で家元同職会議が行われる。席上仙知は時期尚早と主張し、丈和の1月遅れで八段になっていた井上幻庵因碩との争碁を勧めるが因碩は受けず、仙知が争碁を打つことになり寺社奉行から許可を得る。しかし仙知の病気などで日程が決まらず、因碩が争碁願を提出、仙知の裁定で2、3年待って争碁を行うこととしたが、天保2年に突如丈和が名人碁所に任命される。この急な任命の理由は不明だが、林元美が丈和から八段昇段の約束を得て、出身である水戸藩の隠居「翠翁公」を通じて寺社奉行に働きかけたとの見方がある。 天保6年(1835年)に浜田藩の家老で安井家門人(二段)でもあった岡田頼母が老中松平周防守に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組む。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の赤星因徹を丈和に挑ませる。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして公儀に訴え出る算段であった。赤星の実力は確かなもので、いったんは優勢に持ち込むが、丈和は有名な「丈和の三妙手」を放ち、赤星を下した。この対局中赤星は血を吐き、その後26歳で死去。ここからこの一局を「吐血の局」と呼ぶ。これにより因碩の野望は砕いたものの、林元美の八段昇段の内約を破ったことの訴えなどがあって、天保10年(1839年)に碁所を返上して引退。元丈の子である丈策に家督を譲った。
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