天保の内訌での役回り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 01:33 UTC 版)
文政11年(1828年)に本因坊丈和が碁所願を出した際、元美は添願人となったが、この時元美を八段昇段させる密約があり、また水戸藩の徳川斉昭に、水戸徳川家から養子に入った当時の寺社奉行土屋相模守彦直への働きかけを依頼したとも言われている。天保2年(1831年)に丈和は名人碁所になったが、元美の昇段はさせず、元美は水戸藩隠居を欺いた形となった。 天保9年(1838年)に安井家の跡目安井算知 (俊哲)を七段昇段を認めたことで、元美は井上幻庵因碩を添願人として、丈和との二十番の争碁願いを提出する。これにはかつての密約が書かれていたともされ、また先に安井知得仙知、因碩との争碁をうやむやにして避けていた丈和は追い詰められ、翌年碁所を返上し引退する。元美は、丈和が争碁を避けたことを理由に、寺社奉行に八段昇進の口上覚を提出、丈和から家督を継いだ本因坊丈策と安井算知は反駁書を出すが、寺社奉行からの沙汰は無かった。
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