起源と成立
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レッディ・カーストはその起源を、デカンを支配したラーシュトラクータ朝にまでさかのぼり、レッディの人々はすでにアーンドラ地方で社会集団を形成していたことで知られる。 そして、カーカティーヤ朝がアーンドラ地方を支配していた時代、レッディの指導者は将軍の一人として仕えていたことも知られている。 だが、14世紀に強大なデリー・スルタン朝の勢力が南下し、レッディの集団も戦ったが、1323年にカーカティーヤ朝の首都ワランガルが落とされ、事実上滅亡するに至った。 このとき、レッディの指導者プローラヤ・ヴェーマ・レッディ(在位1325 - 1335)はアッダンキを拠点に、農民と牧畜民からなる大軍を組織し、デリー・スルタン朝の勢力に立ち向かった。 プローラヤ・ヴェーマ・レッディはデリー・スルタン朝に果敢に立ち向かい、南インドのホイサラ朝のバッラーラ3世の支援も取り付け、1325年までにアーンドラ地方からその勢力を撃退し、その勢力はアーンドラ地方の海岸一帯にまで広がっていた。 プローラヤ・ヴェーマ・レッディはその後も戦い、激戦の末にベッラムコンダ、ヴィヌコンダ、ナーガールジュナコンダなど各地を解放し、1326年にはワランガルすらも開放する勢いだった。 また、プローラヤ・ヴェーマ・レッディはバラモンを尊敬しており、その治世の碑文には、 “ 私は、邪悪なイスラームの王によって奪われたバラモンのすべてのアグラハラ(バラモンにあてがわれた村落)を取り戻す。私はまさに、イスラーム教徒によって作られた海へ向かうアガスティヤである。 ” 、と記されている。 プローラヤ・ヴェーマ・レッディはその治世、アッダンキからコンダヴィードゥに遷都し、コンダパッリの城塞なども建築した。 また、情勢が回復したことで文芸や芸術の復興も行われ、旧寺院の大規模修繕と108の新寺院建立を行い、マハーバーラタの翻訳者エッラナもその治世に住んでいた。 なお、プローラヤ・ヴェーマ・レッディの治世末、1334年以降にデリー・スルタン朝の分裂が起こり、その広大な版図は徐々に崩壊していった。
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起源と成立
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5世紀から7世紀ごろ、現在のミャンマー地域に居住したピュー族はチンロンに似た遊戯を行っていたとされ、タイェーキッタヤーで発見された遺跡からは銀製のチンロン球が出土している。1782年、イタリアから王都インワ(英語版)に布教活動にやってきたローマ・カトリック教会のサンジェルマーノ神父は「竹を細く切って作った球体を手で打たずに足でける遊び方も存在している。この遊びに若者たちは多くの時間を費やし、一緒に蹴って遊んでいる」と記している。この時代のチンロン球は現在のようなトウ(籐)製ではなく、竹やヤシ繊維製だったとされている。1870年代中頃、イギリス人医師のC・A・ゴードンは「四人のビルマ人がチンロンを蹴って遊んでいるのを見た。私たちのいうサッカーのように、彼らは機敏に蹴って遊んでいた。私が目にした球体はトウで作られた中空の球形である」と記し、遊戯の形態やルールなども記している。
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起源と成立
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西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができる。この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。その中、拓跋赤辞(中国語版)は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州に移住し平西公に封じられた。唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭(中国語版、英語版)が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。 宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明(拓跋思恭の弟の拓跋思忠の末裔)の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット・ビルマ語派のタングート語を表記するための独自の文字である西夏文字を制定した。 即位の翌年からは、長年の宿敵である青唐のチベット系勢力青唐王国(1032年 - 1104年)を攻めて決定的な打撃を与え、さらに1036年には宋の支配下であった、河西地方西部の粛州・瓜州・沙州に兵を進めて制圧した。またチベット系をさらに牽制するため、蘭州近郊へ兵を送った。そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。
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起源と成立
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1843年にパリに移住したマルクスは、すでにドイツ哲学のうちの、ヘーゲルの「弁証法」とフォイエルバッハの「唯物論」を受容していた。弁証法は、創造-破壊-新たな創造という不断の過程を通じて前進する人類の傾向を指し、ゲルツェンによって「革命の代数学」といわれたように、変化を肯定する考え方だった。一方ヘーゲルの「絶対者」を「人間」「物質」に置換して解釈したフォイエルバッハの唯物論は、「人間は、その食うところのものである」と言いあらわすことができる。ロマンチックな希望より食欲のほうが確実・徹底的な変革の基礎と思われたので、マルクスはこの唯物論の上に革命の弁証法を置くことを考えた。しかしフォイエルバッハの唯物論は 「物質」を単に外界の模写(感覚)と考え、それは思惟されたもの(精神)と区別がつかない 「物質」を静態的なものとして扱う という難点があり、時間を扱う歴史哲学や変化を説く革命理論と折り合わないことにマルクスは気づいていた。パリで労働者の政治運動を見聞し、人間が社会的動物であるという見方を吸収したマルクスは、フォイエルバッハの唯物論を「意識が人間の存在を決定するのではなく、人間の社会的存在が意識を決定する」という定式に変えた。 さらに1844年にエンゲルスに会い、すでに自分が書いていた『経済学批判要綱』での主張である資本と労働の間の分離や私有財産への彼からの攻撃を知ったマルクスは、「階級闘争」という新しい観念をヘーゲル弁証法とフォイエルバッハ唯物論を結合させる要として用いる。 「階級闘争」は生活の資を得ようとするところから「唯物的」「経済的」な運動である。その運動は社会制度を作り、どの社会も時がたつとそれ自身の否定を生み出すという意味で「弁証法的」「政治的」なのである。エンゲルスはこのようなマルクスの哲学への貢献を、「自然と歴史の唯物論的解釈に弁証法を引き入れた」ことであると明記した。ヘーゲルにとって思惟の範疇と考えられた「弁証法」を、物質的な過程に置き換えることについての困難は、マルクスによって気づかれなかったか無視された。「哲学者たちは単に世界をいろいろに解釈してきただけだ、我々の仕事は世界を変革することなのに」という哲学への軽蔑は、行動を欲するマルクス主義者に受け継がれる。“学位論文以後のマルクスは、フォイアーバッハの「人間学的唯物論」の影響を受けて、無神論と唯物論を結びつけることになるが、その結合の主導権は無神論にあるのであって、唯物論にあるのではない。マルクスにあっては、いわゆる唯物論は、伝統的観念論と闘うときの論争的アクセントであり、学的意味での思想的立場とすることはできない。”(『マルクス入門』 P86~P87 今村仁司著 ちくま新書)
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