後金への帰服とは? わかりやすく解説

後金への帰服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:18 UTC 版)

ホルチン」の記事における「後金への帰服」の解説

1593年ホルチンタイジTaiji、台吉)であるチェチェク(Cecek、斉斉克)の子のウンガダイ(Unggadai、翁果岱)はナムサイ(Namusai、納穆賽)の子のマングス(Manggūs、莽古斯),ミンガン(Minggan、明安)等と、海西女真イェヘ(Yehe、赫)部タイジブジャイ(Bujai、布斎)に随い、ハダ(Hada、哈達),ウラUla烏拉),ホイファ(Hoifa、輝発),シベ(Sibe、錫伯),グワルチャ(Gūwalca、卦爾察),ジュシェリ(Jušeri、珠舎里),ネイェン(Neyen、納殷)の諸部とともに建州女真Manju満洲)に侵攻したイェヘ連合軍はヘジゲ(Hejige、赫済格)城を攻めた下せず、その後ヌルハチ敗れたミンガンは馬を乗り捨て裸で遁走し、ウンガダイはウラ部のタイジであるブジャンタイ(Bujantai、布占泰)を助けたが、満洲軍によって敗北したここにおいてマングス,ミンガン,ウェンゴダイは前後して満洲に遣使を送って好を乞うた。 後金天命9年1624年)、ウンガダイの子オーバ(Ooba、奥巴)は一族率いて後金帰順したこのためホルチン部がチャハル部侵攻された時、後金はこれを援け包囲解いてやった。天聡2年1628年)、大軍会してチャハル部征した天聡3年1629年)、ホルチン部は後金の明征伐従い遵化州で勝利し北京包囲した天聡5年1631年)、大凌河囲み、その将である祖大寿降した天聡6年1632年)、後金大同・宣府攻略に従う。天聡8年1634年)、再び明征伐に従う。天聡10年1636年)春、後金軍はチャハル部降し元朝伝国の玉璽獲得したオーバの子のトシェート・ジノン・バダリシェ・タイジ(土謝図済農巴達礼偕台吉)であるウクシャン(Ukšan、烏克善),マンジュシリ(Manjusiri、満珠習礼),ブダチ(Budaci、布達斉),ホンゴル(Honggor、洪果爾),ラマスヒ(Lamashi、喇嘛什希),ドンゴル(Donggor、棟果爾)等、及びジャライト(Jalait、扎賚特)部,ドルベト(Durbet、杜爾伯特)部,ゴルロスGorlos郭爾羅斯)部,ハラチン(Haracin、喀喇沁)部,トゥメト(Tumet、土黙特)部,アオハン(Auhan、敖漢)部,ナイマンNaiman奈曼)部,バアリン(Barin、巴林)部,ジャルート(Jalut、扎魯特)部,アルホルチンAru Karacin、阿魯科爾沁)部,オンリュート(Ongliγud、翁牛特)部の諸部族長は後金来朝し祝賀した。

※この「後金への帰服」の解説は、「ホルチン」の解説の一部です。
「後金への帰服」を含む「ホルチン」の記事については、「ホルチン」の概要を参照ください。

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