後金への帰服
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1593年、ホルチンのタイジ(Taiji、台吉)であるチェチェク(Cecek、斉斉克)の子のウンガダイ(Unggadai、翁果岱)はナムサイ(Namusai、納穆賽)の子のマングス(Manggūs、莽古斯),ミンガン(Minggan、明安)等と、海西女真のイェヘ(Yehe、葉赫)部タイジのブジャイ(Bujai、布斎)に随い、ハダ(Hada、哈達),ウラ(Ula、烏拉),ホイファ(Hoifa、輝発),シベ(Sibe、錫伯),グワルチャ(Gūwalca、卦爾察),ジュシェリ(Jušeri、珠舎里),ネイェン(Neyen、納殷)の諸部とともに建州女真(Manju、満洲)に侵攻した。イェヘ連合軍はヘジゲ(Hejige、赫済格)城を攻めたが下せず、その後もヌルハチに敗れた。ミンガンは馬を乗り捨て裸で遁走し、ウンガダイはウラ部のタイジであるブジャンタイ(Bujantai、布占泰)を助けたが、満洲軍によって敗北した。ここにおいてマングス,ミンガン,ウェンゴダイは前後して満洲に遣使を送って好を乞うた。 後金の天命9年(1624年)、ウンガダイの子のオーバ(Ooba、奥巴)は一族を率いて後金に帰順した。このため、ホルチン部がチャハル部に侵攻された時、後金はこれを援けて包囲を解いてやった。天聡2年(1628年)、大軍を会してチャハル部を征した。天聡3年(1629年)、ホルチン部は後金の明征伐に従い、遵化州で勝利し、北京を包囲した。天聡5年(1631年)、大凌河を囲み、その将である祖大寿を降した。天聡6年(1632年)、後金の大同・宣府攻略に従う。天聡8年(1634年)、再び明征伐に従う。天聡10年(1636年)春、後金軍はチャハル部を降し、元朝の伝国の玉璽を獲得した。オーバの子のトシェート・ジノン・バダリシェ・タイジ(土謝図済農巴達礼偕台吉)であるウクシャン(Ukšan、烏克善),マンジュシリ(Manjusiri、満珠習礼),ブダチ(Budaci、布達斉),ホンゴル(Honggor、洪果爾),ラマスヒ(Lamashi、喇嘛什希),ドンゴル(Donggor、棟果爾)等、及びジャライト(Jalait、扎賚特)部,ドルベト(Durbet、杜爾伯特)部,ゴルロス(Gorlos、郭爾羅斯)部,ハラチン(Haracin、喀喇沁)部,トゥメト(Tumet、土黙特)部,アオハン(Auhan、敖漢)部,ナイマン(Naiman、奈曼)部,バアリン(Barin、巴林)部,ジャルート(Jalut、扎魯特)部,アルホルチン(Aru Karacin、阿魯科爾沁)部,オンリュート(Ongliγud、翁牛特)部の諸部族長は後金に来朝し、祝賀した。
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