勝頼期の外交と甲佐同盟の締結
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「甲佐同盟」の記事における「勝頼期の外交と甲佐同盟の締結」の解説
元亀年間に将軍義昭と織田信長は関係悪化し、武田氏はそれまで友好的関係にあった信長と手切となり、信長の同盟国である徳川家康の三河領や尾張への侵攻を開始する(西上作戦)。西上作戦は信玄の死去により頓挫し、信長は将軍義昭の構築した包囲網を撃破する。武田家では勝頼に家督交代し、勝頼は当初信玄期までの外交方針を踏襲し、反攻を強めていた徳川氏に対抗するが、天正3年の長篠の戦いでは有力家臣を多く失う大敗を喫しており、佐竹氏らの取次を務めていた土屋昌次はこの合戦において戦死している。 長篠における大敗後、武田家では外交方針の転換を行う。織田信長とは長篠以降は小康状態にあり、相模後北条氏との甲相同盟を強化している。天正6年には越後上杉家において謙信死後の家督争いである御館の乱が発生し、勝頼は北条氏の要請で介入のため出兵し上杉景勝・上杉景虎両者の和睦を実現させ、景勝との同盟関係を成立させる(甲越同盟)。勝頼の撤兵中に和睦は破綻し景勝が乱を制したため北条氏では武田との関係を手切とし、甲相同盟が破綻する。 甲相同盟の破綻により武田氏は後北条領国と接する西上野や旧今川領国の駿河・伊豆方面において北条方と抗争状態となり、勝頼は上杉景勝に関東出兵を促しているが景勝は領国内が不安定であるため手合を実行できず、上杉氏と織田氏とは謙信後期に手切となっていたため、勝頼は織田氏との交渉や対後北条氏のため新たな同盟を模索していた。 そのため同盟関係を試みたのが元亀年間以来は希薄となっていた佐竹氏との関係で、勝頼期の取次は信玄期に甘利信忠・土屋昌続両者が死去していたため、武田御一門衆の武田信豊と勝頼側近で西上国衆との取次を務めていた跡部勝資が担当している。この武田一門と信豊と勝頼側近の勝資の組み合わせは甲越同盟に際した取次と同様であることが指摘されている[誰によって?]。 甲佐同盟の交渉開始時期は不明であるが、初見資料は天正7年(1579年)9月6日付蘆名氏家臣金上盛備・富田氏実宛の佐竹一門佐竹義久書状で、この頃には双方の間で交渉が行われていることが確認される。武田氏の使者は後北条氏の妨害を受けたため「北国筋」で常陸との往来を行っており、佐竹義久は蘆名氏に対して伝馬の便宜を要請している。後北条領国を挟む武田・佐竹氏間においては使者の往来が常に懸案となり、天正9年(1581年)6月段階の武田勝頼条目にいても使者の往来について上野沼田城代真田昌幸に対して佐竹・蘆名両氏と相談することを命じている。 天正7年9月頃には、武田方は武田信豊、佐竹方は梶原政景・太田資正が取次となり双方で誓詞を交わし、「手合」について協議している。同時期に駿河国江尻に在陣し後北条勢と硬直状態にあったが、勝頼は佐竹氏との同盟交渉に際して北条方の背後を突く軍事行動を要請を行っており、勝頼は佐竹方の行動を確認するため同年末まで在陣している。 また、天正8年6月には佐竹方から勝頼に対し上野新田表への出兵を要請しており、同年9月に勝頼は上野への出兵を実行しており、甲佐同盟は相互に軍事行動を行い機能していることが確認される。勝頼はさらに佐竹氏のほか宇都宮氏や佐野氏ら北関東諸氏とも個別に外交関係をもっているが、佐竹氏に対してはこれらの北関東諸族を「諸家」と総称しており、佐竹氏を関東における盟主的存在と認識していたと考えられている。
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