勝頼撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
3月1日、武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。徳川軍はあっという間に駿河を制圧した。そのため本国の甲斐が危うくなった武田勝頼は、塩尻峠と有賀峠で織田軍を防ぎつつ高遠城に後詰めをするという戦略を諦めて、諏訪上原城から新府城に撤退したが兵の逃亡が相次いで、それまで10000人いた勝頼本軍の兵がわずか1000人まで激減していた。勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、杖突峠を押さえて本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向う。3月4日、家康は梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始した。 翌3月5日、織田信長は安土城を出発、3月6日には揖斐川に到達した。ここで嫡男・信忠から仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。 『信長公記』に拠れば、3月3日に勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り逃れる。この時、多くの武士の妻子が取り残されたまま新府城に火が放たれた。また、この時かその以前に保科正直の子息、甚四郎(後の保科正光)は、正直が高遠城で寝返ったために成敗されかけたが、家臣の機転により脱出した。『甲陽軍鑑』に拠れば、勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対し信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案したが、勝頼側近の長坂光堅が信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れるべきと主張したという。一方、『甲乱記』では信勝・昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対して郡内へ逃れることを諮問したとしている。 なお、岩殿城は都留郡北部に位置し小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山田氏の城と見るか武田氏の城と見るかで議論がある。
※この「勝頼撤退」の解説は、「甲州征伐」の解説の一部です。
「勝頼撤退」を含む「甲州征伐」の記事については、「甲州征伐」の概要を参照ください。
- 勝頼撤退のページへのリンク