勝頼期の活動から処刑
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信玄の死後は後継者の勝頼に仕える。「秋山家文書」によれば、天正元年12月25日には武田家の譜代家老である金丸筑前守(虎義)の三男・惣九郎(昌詮)を娘婿とし、養子に迎える。金丸氏から養子を迎えた背景には、岩村城代を兼任する立場から子息に恵まれないことを危惧したとも考えられている。なお、昌詮は天正7年(1579年)7月23日に病死し、筑前守の七男・源三郎(親久)が秋山氏を継承した。 天正3年(1575年)5月21日、織田・徳川連合軍と武田勢の間で行われた長篠の戦いで武田軍は大敗し、織田・徳川勢は武田氏に対する反攻を強めた。織田・徳川勢は奥三河の諸城を陥落させると、6月25日には三河武節城(愛知県豊田市武節町)を陥落させた。信長は嫡男の織田信忠に命じて岩村城を包囲させた(『信長公記』)。虎繁は春近衆・岩村衆を率いて防戦し、勝頼に対して救援を要請し、「諸州古文書」によれば、7月19日には武田信豊・小山田信茂が後詰として出陣することを連絡されるが、勝頼は遠江方面の防戦にも忙殺されていたため、実現には至らなかった。8月10日には日向虎頭が大嶋城へ派遣され、虎繁の同心衆は小山田昌成・保科正直の下知に従うことを伝えている。 同年11月に勝頼は岩村城へ出兵するが、これに対して織田勢も岩村城への攻勢を強め(岩村城の戦い)、虎繁は城兵の助命を条件に信忠に降伏した。織田氏はこれに対し城兵を殺害し、虎繁は11月21日に捕縛されると岐阜へ連行され、11月26日に家老の大嶋長利・座光寺貞房とともに長良川で磔に処された(『信長公記』)。享年49。 『本土寺過去帳』や『甲斐国志』所引の秋山氏の菩提寺・清運寺過去帳によれば法名は浄国、『開善寺過去帳』では虎繁の命日を正確に記し、法名を「秋伯忠義禅門」としている。
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