甲賀郡での蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
10月14日(11月16日)矢川神社の鐘が打ち鳴らされ、四方八方より農民が参集し法螺貝を鳴らし太鼓を打ち鯨波の声をあげ、横田川原へ向かった。10月15日(11月17日)丑の刻(午前1時)、泉村に隣接し横田川原の南にある酒人村(現甲賀市水口町)より各所で法螺貝が鳴り響き野洲川南の村々が騒然とした状況にあるとの一報が水口藩に入り、水口藩では大庄屋山村十郎右衛門を同道し、野洲川と杣川に挟まれた酒人村から氏川原村(宇川村、現甲賀市水口町)周辺に出張った。資料によると一揆参加者は寺庄村(後の寺庄町、現甲賀市甲南町)の場合参加率は66.3%の55名、葛木村(現同市同町)は56.6%とされ、それだけでもかなりの人数になるが、当時一揆後は村を守るため参加者を少なく報告するのが常であり、実態は相当の割合に上ったと思われる。『甲賀郡志』では1万2千人、『野洲郡史』では2万人、『浮世の有様』では3万人が甲賀郡で一揆に参加したと記されている。また、一揆勢の出立ちは蓑笠に杖状の竹を持ち、あくまでも談判が目的であることから刃物類は勿論のこと武器となる鋤鍬なども一切携行していなかった。 15日の夜明けには矢川神社から杣川にかけ農民で溢れていたところ、一揆指導者は農民に血気に逸らないことを求めていたにも関わらず、見分作業の前に市野一行の下調べに協力した五反田村(現甲賀市甲賀町)庄屋孫丸郎宅・田堵野村(現同市同町)庄屋伝兵衛宅・三大寺村(現甲賀郡水口町)酒造家和助宅・菩提寺村(現湖南市)庄屋佐兵衛宅・森尻村(現甲賀市水口町)庄屋徳右衛門宅・杉谷村(現甲賀市甲南町)庄屋九兵衛宅への打ち壊しが行われた。田島治兵衛・藤田宗兵衛・中藪喜兵衛等の指導者は、家屋への打ち壊しは今回の嘆願に害こそあれ何の益も無いことを説き、訴願の目的達成にのみ行動するように求めた。 水口藩では農民結集後打ち壊しまで起こったことから、一揆勢を抑止説得するため横田川原方面に物頭市橋総兵衛以下を、矢川神社方面に同じく物頭細野亘・郡奉行岡田勘右衛門以下30余名を派遣し鎮撫に当たらせた。矢川神社方面に出張った藩士等は多勢に無勢のため、横田川原方面の藩士と合流し泉村の横田橋にて物頭細野と郡奉行高田弥左衛門が一揆勢阻止を図ったが、水口藩以外の農民も多く同藩の指示に従う必要なしとして次々に渡橋した。15日夜、一揆勢は横田川原で篝火を焚き気勢をあげる中、水口城下より一揆勢に対して炊き出しが行われた。なお、細野亘と岩根村大庄屋藤谷弥八とは親戚の関係にあった。 当初の約定では甲賀一揆勢は三上村での談判結果が出るまで横田川原にて待機する予定であったが、一揆勢は横田川原から甲賀郡石部宿(現湖南市石部町)方面への移動を開始した。記録によれば、この時白装束に白髪の老人が『諸行無常』の小旗を持って『我こそ一揆の発頭人である。後に続け。』と叫んだと伝えられている。一揆勢は途中三雲村(現湖南市甲西町)で地元の人達より炊き出しを受けた。石部宿には一揆の通報を受けた膳所藩が中村式右衛門以下170余名を警備のため派遣していたが、三上村への移動は阻止せず、中村自体が一揆勢に同情的で宿場の福島治郎兵衛に命じ50余俵の炊き出しを行った。一揆勢は途上、前述の菩提寺村庄屋佐兵衛宅を打ち壊し三上村へ向かった。
※この「甲賀郡での蜂起」の解説は、「近江天保一揆」の解説の一部です。
「甲賀郡での蜂起」を含む「近江天保一揆」の記事については、「近江天保一揆」の概要を参照ください。
- 甲賀郡での蜂起のページへのリンク