御館入と御用達
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御館入(ごかんいり)、または御内分御館入は、藩の蔵屋敷に親しく出入りしている者のことである。御館入を仰せ付けられた後に「御内分」に仰せ付けられるため、御内分の方が通常の御館入よりも格上であったと考えられている。 御館入を仰せ付けられている者は、オランダ通詞や唐通詞、長崎の町役人である町年寄や宿老、蔵屋敷の所在地の町乙名や日行事、盗賊方乙名およびその手付等がいた。町年寄や乙名の中には「代々御館入」を仰せ付けられている者もいた。 通詞達は、海外からの使者や文書の通訳・翻訳が仕事であるため、それらの情報に接する機会は当然多い。聞役達は、彼らと接触することで、様々な情報をいち早く知ることが出来たのである。 また、長崎奉行所の多くの人間が御館入を仰せ付けられていた。奉行所への民事訴訟を扱う御奉行所目安方筆役や、長崎奉行所組与力支配、波止場役や遠見番といった役人達が御館入となっている。彼らは、藩出身の町人に関わる訴訟や長崎に外国船が入港する時などに聞役達のために便宜をはかったのである。他にも、長崎貿易を取り仕切る長崎会所の者、奉行所書物目利や御代官元締め手代といった人達も御館入の中にいた。役人達が出入りし、便宜をはかることは、当時の感覚としては不正とは見なされていなかったのか、その存在は特に秘密とはなっていなかった。 御用達は、長崎蔵屋敷に出入りする町人で、屋敷の物資調達や使い走り等様々なことを請け負っていた。中には、藩の貿易、ことに武器の購入などにも協力したという。「用達(ようたっし)」あるいは「用聞(ようきき)」とも呼ばれ、西国14藩以外にも西日本を中心に多くの藩が設定していた。御用達町人の中には、小袖や紋付を拝領した者や、その功により米を毎年下賜されるようになった者、御目見となった者もいた。 医者や大工の棟梁、船頭といった人達も御館入となっていた。また、藩の御用船宿や、緊急時に御用場として使う寺などもあった。それらの寺には、毎年米を寄付していた。 御館入の中には、御紋付きの上下を拝領した者、扶持を給されその藩の藩士に準ずる身分となった者、貿易業務を任されその勤役中は17人扶持を給される者などもいた。しかし、藩から反対給付を受けることは少なかった。また、「代々御館入」を仰せ付けられている者も、代替りの時は「相替らず御館入御用向に被仰付候様に」との願書を差し出して許可を受ける、つまり藩が依頼するのではなく、町人の方から御館入にして下さいと願い、藩の方で御館入を仰せ付けるという形式になっていた。町役人にとって、諸藩との関係を持つことそれ自体が名誉で、出入りを許される身分となることが目的だったのである。 同じ人物が複数の藩の蔵屋敷の御館入になっていることもあった。
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