御馬廻組頭に抜擢される
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1843年12月19日(天保14年10月28日)、土佐藩主山内豊熈の時代、御馬廻組頭を仰せ付けられ役領知100石を下し置かれた。1845年7月13日(弘化2年6月9日)、江戸への御使者を仰せ付けられて差立て、10月4日(旧暦9月4日)下着した。1846年3月15日(弘化3年2月18日)、御馬廻組頭を差免れ役領知を除き、御馬廻仰せ付けられる。 1847年7月10日(弘化4年5月28日)、異国船御手当御用、外輪御柄頭仰せ付けられ、足軽知200石を下し置かれた。1848年1月21日(弘化4年12月16日)、御馬廻組頭を仰せ付けられ役領知100石を下し置かれ、尤も爾来の足軽知は除かれる。1849年12月29日(嘉永2年11月15日)、大御扈従組頭・御奏者番仰せ付けられ、役料知100石を下し置かれ尤も爾来の役領知は除かれる。 1849年12月31日(嘉永2年11月17日)、御馬廻支配を仰せ付けられる。1850年7月19日(嘉永3年6月11日)、当役そのまま御附を以って江戸表へ差立て、同4年5月20日下着した。1851年7月12日(嘉永4年6月14日)、御扈従組頭・御奏者番を差免れ役領知を除かれ、御馬廻を仰せ付けられる。 1852年9月13日(嘉永5年7月30日)、先達って江戸在勤中、不心得の儀の趣相聞、然るに御侍風俗の儀は兼々御示し仰せ付け置かれ、殊に其の節、組頭の身分に候得ば、厚く相心得置候の処、その儀なく件の次第を不心得の極み、御不快に思し召され、21日この度遠慮仰せ付け置き候。子細に付き屹度仰せ付けらる筈の処、今般、若殿様御弘め御祝儀に当たり思し召され前躰の通り差免れた。 1858年5月14日(安政5年4月2日)、御組頭の場を以って深尾丹波殿御組、御馬廻当分差し引き仰せ付け置き候処、御免仰せ付けられる。1859年4月8日(安政6年3月6日)、惣領真辺正心(栄三郎)儀、御咎仰せ付け候、子細に付き慎み仰せ付け置き候処、前躰の通り差免れる。1868年11月26日(明治元年10月13日)病死。墓は土佐の丹中山にある。
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