御駕籠之者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:53 UTC 版)
将軍や世子が乗る駕籠を担ぐ者。単に駕籠之者とも称する。20俵2人扶持だが、三河以来の家柄であれば、役高5人扶持も別に与えられた。3つの組に分けられ、各組に駕籠之者頭と世話役が1人ずつ置かれた。御駕籠之者は西丸にも設置されていて、駕籠之者頭も別に存在した。徳川家康の存命中には御駕籠頭1人・御駕籠之者31人がいたという記録があり、時代が下るにつれて人員は増加した。将軍の出御に際して、黒木綿の表に茶色の裏付の半纏を賜った。将軍の身近に仕える立場のため、たとえ親兄弟であろうとも「一切洩す申間敷事」という起請文を書かされた。 駕籠之者は世襲制ではあったものの、身長が低い者では駕籠を担ぐのに支障があるため、背の高い養子を取り家を継がせることもあったという。身長が低く御用を勤められない者は、同僚にその役目を代わってもらわねばならず、「濡手当」という別途支給される手当を貰えなかった。 元和2年(1616年)、御小人や御中間とともに本郷湯島にある組屋敷を拝領。当初は駿河町といったが、元禄9年(1696年)に三組町と改称された。寛文3年(1663年)に本所四つ目手前にも組屋敷が与えられた。明和9年(1772年)の明和の大火の後、三組町の組屋敷は本郷春木町に、本所四つ目の組屋敷は谷中の七面前に代地を与えられ、その後巣鴨に移転。寛政2年(1790年)11月に御駕籠頭1人と御駕籠之者16人が、四谷鮫ヶ橋の組屋敷を拝領された。
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