御館の乱と本能寺の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 14:56 UTC 版)
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その跡目を争って長尾氏系の景勝と、北条氏政の実子で謙信の養子になっていた景虎とが抗争を繰り広げた(御館の乱)。この戦いで後北条氏と親しい高広は、景虎を支援した。しかし結果は景虎の敗北となり、厩橋城主の景広は越後で戦死、天正7年(1579年)2月、北条高広は内藤昌月らを通して武田勝頼に従属した。この時、厩橋城には北条高広、大胡城には大胡高繁が入った(大胡高繁は北条高広の親族と思われる)。 しかし、天正10年(1582年)、その武田氏も織田信長に攻められて滅亡、その後信長の家臣滝川一益が上野一国を与えられて厩橋城(前橋城)に入りこの地方を支配したが、本能寺の変で信長が殺害されると織田氏の勢力も一掃された。神流川の戦いで北条氏直に敗れ滝川一益が上野を去った後、天正11年(1583年)9月、沼田城の真田昌幸と連携し独立を保っていた北条高広の厩橋城が北条氏邦に落とされ、この地方は厩橋城に入った氏邦の支配下に置かれることとなる。
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