そごう入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:50 UTC 版)
48歳で日本興業銀行を退職し、1958年にそごう副社長として入社。妻・静の兄康男がそごうの大株主の一つである小樽市の豪商板谷家に婿養子に行っていたが、同じく大株主の富士木材貿易社長・有富光門が主導して読売会館へ出店した東京店(有楽町そごう)の経営が振るわず、板谷家を代表する形で経営陣入りしたものである。なお、この際に主力銀行の大和銀行から若菜三良が副社長として派遣され、社長には京都の老舗百貨店である丸物から坂内義雄を招聘した。 入社してすぐ、懸案の東京店の賃貸料交渉を正力松太郎率いる読売新聞社(現:読売新聞東京本社)相手に開始。当初は正力から罵倒され坂内と若菜が手を引いて水島単独で交渉する破目になったが、翌1959年7月には従来の半分以下となる売上の5%という賃貸料で決着した。この後に正力と親しい関係となり「有楽町の帝王」と呼ばれるきっかけを作った。 1960年に坂内社長が死去すると、同じ副社長の若菜と後継争いが勃発。後継争いはマスコミに取り上げられ、大宅壮一から「財界松川事件」と命名されるまでになった。結局は若菜が社長に就任したものの、その後大和銀行が子会社を含め10%超のそごう株を所有していることが独占禁止法に抵触するとして問題化した。この点を突く格好で、1962年に水島が社長に就任した。
※この「そごう入社」の解説は、「水島廣雄」の解説の一部です。
「そごう入社」を含む「水島廣雄」の記事については、「水島廣雄」の概要を参照ください。
- そごう入社のページへのリンク