そごう再建
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2000年4月、大型店舗の展開によって「地域一番店」を目指し出店攻勢を続けていたそごうに君臨していた水島廣雄が、千葉そごうを始めグループ企業の株をすべてメインバンクであった日本興業銀行(興銀)に提出し会長を辞任した。水島の辞任は、みずほホールディングス(現:みずほフィナンシャルグループ、以下「みずほFG」)発足前までに、統合する3行(興銀、富士、一勧)の負の遺産の処理を終えるとしていた方針に則ったものだった、 これと前後して同年5月には、興銀頭取であった西村正雄がそごうの再建を和田に託することを決めて説得を開始。その説得の最中に、6,400億円の債務免除を発表し再建計画が動き出していたそごうに対し「長崎屋は倒産したのに、そごうはなぜ救済されるのか」といった世論の猛反発が起こり、さらに野中広務自民党幹事長(当時)が「そごう問題はまったく報告を受けていない。こういう救済結果になったのは理解に苦しむ」とまで述べ、政府・与党内部にあっても見解の相違があることが明らかとなった。そして、亀井静香自民党政調会長(当時)がそごうの社長であった山田恭一に対し「自主的に債権放棄要請を取り下げて欲しい」と介入し、そごうは自主再建を断念し、同年7月12日に東京地裁へ民事再生法の適用を申請した。和田はそごう再建にあたり、一度会社を潰した上で大幅な債権削減が期待できる公的整理が最良の再建策であると考えていたため、民事再生法の適用申請は和田の意に沿う形となった。 2000年7月26日、東京地裁が民事再生法の開始決定を下したことを受け、和田は次期社長含みでそごう特別顧問に就任した。和田は顧問就任早々、古巣である西武百貨店の社長であった堀内幸夫を訪ね、そごう再建にあたっての協力を要請し承諾を得た。また水島をはじめとする旧経営陣の経営責任を厳しく追及し損害賠償を求め、同時に労働組合も追及し当時の労組委員長は辞任に追い込まれた。同年8月10日には、西武百貨店会長であった米谷浩をそごうの営業部門のトップとして招き、さらに西武百貨店の子会社であったミレニアム企画と業務委託契約を締結。同社が70名の陣容でそごうの再建計画の策定にあたった。再建チームは同年10月15日、9店舗の再建断念と残り13社12店舗をそごう本体の休眠会社であった「十合」1社に統合するという再生案を東京地裁に提出した。これに基づき2001年1月末、東京地裁は西武百貨店との関係強化を軸とする再生計画案を認可。和田は核店舗の統括を目的として、新たに持株会社十合を設立し、同社社長に就任した。和田はそごう再建の本格始動にあたり、西武百貨店と同様に『そごう白書』を執筆。過去の経営陣を厳しく批判し全社員に危機感の共有を求めた。さらにそごうにチェーンオペレーションを導入しようとしたほか、企業文化の刷新に加えて人事労使の改善を進めた。こうして2003年1月、そごうは再生計画を2年前倒しで達成。東京地裁も同月末に再生手続き終結を認めた。
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