竹中四代目へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:46 UTC 版)
「山口組四代目跡目問題」の記事における「竹中四代目へ」の解説
5月25日、加茂田重政は関西労災病院に入院中の田岡文子に呼ばれ、山口組四代目選考に関して竹中を支持するように頼まれたが、加茂田は拒否。27日には山本広も田岡文子に呼ばれ、田岡文子から竹中を山口組四代目に就けるように頼まれたが、山本広も拒否している。 その一方で小田は5月末に、山口組四代目の跡目問題に関して宅見に面談を申し込んだものの、宅見は小田との面談を色々理由をつけて避けてしまう。6月1日には、小田が稲川聖城(稲川会会長、本名は稲川角二)と会い、竹中の山口組四代目就任を止めようとしたものの、稲川は山口組四代目跡目問題への介入を拒絶。田岡文子が3日に関西労災病院を退院すると稲川が退院祝いに駆けつけ、田岡文子からの竹中正久山口組四代目の後見役としての依頼を快諾する。 6月5日午後3時の山口組直系組長会で、竹中は山口組四代目組長就任の挨拶をした。この組長会に出席したのは直系組長96人中46人と、田岡一雄の舎弟2人。これに対し、山本広を支持する直系組長は欠席し、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で山本広・加茂田・佐々木・溝橋・北山・松本・小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで記者会見を開催。竹中正久の山口組四代目就任への反対を表明し、翌6日には山口組の山菱の代紋を組事務所から外した。13日には山本広・加茂田・佐々木らは、山本広を会長に据えて「一和会」を結成、山口組と完全に袂を分かった。
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