打越信夫とは? わかりやすく解説

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広島抗争

(打越信夫 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 21:59 UTC 版)

広島抗争(ひろしまこうそう)は、1950年頃から1972年にかけて広島で起こった暴力団抗争の総称。警察庁による名称は広島拳銃抗争事件。狭義には映画『仁義なき戦い』のモデルとなった第一次広島抗争1950年頃)、第二次広島抗争1963年4月17日 - 1967年8月25日広島代理戦争とも呼ばれる)を示すことがある。


  1. ^ 山村組組長・山村辰雄が金の力で大西政寛を懐柔し、美能幸三を刺客として土岡組組長・土岡博殺害を計画。美能の銃弾は土岡を捉えたが致命傷に至らずに失敗する。海生祐逸一の思惑で山村組と小原組が連合し、土岡組への攻撃を続けたのち、昭和27年6月に山村組若頭・佐々木哲彦配下の者が土岡を殺害。土岡組は間もなく崩壊するが、昭和29年9月に旧土岡組組員が小原馨を散髪屋にて射殺する。さらに山村組内紛や小原組跡目問題により山村組若頭・佐々木哲彦が小原組門広一派に殺害される昭和34年10月まで続くこととなる。
  2. ^ 岡組は戦後の新興団体であり、客のアゲサゲの修行を積み業界の信用を得た上で「カッチリとテラ銭が上がってくる賭場」を経営する金筋のヤクザではなく、闇市に割拠した三国人と手を組んだ被差別部落出身者を中核とする団体である。地方都市の需要に応じて何でもやるのが商売であり、ここから闇市での利権を巡り的屋の村上組と闘争することとなる。昭和21年11月に村上組実子・村上正明が岡組事務所に乗り込んで岡敏夫組長に向かって発砲した事件によって火の手が上がった。その報復で岡組幹部・網野光三郎と原田昭三が村上組組員を殺害。闇市で正明から壮絶なリンチを受けた山上光治が村上組組員3人を射殺するなど、終始岡組優勢で進み、昭和28年に村上三次・正明親子が逮捕されて、翌29年村上組組員がパチンコ店で撃たれ重傷を負った事で抗争にピリオドが打たれた。撃ったのは山田久(のちの共政会三代目)ら二人だった。岡組は勢力を拡大させて広島一の組織となる
  3. ^ 陸軍除隊後、日本機械化義勇団に入団。装甲車やトラックの運転を身に付ける。戦後広島へ戻るとトラック2台を振り出しに運送業を始め、闇物資運搬を主なシノギとした。ほどなく博徒・岡敏夫の舎弟になる。昭和29年実兄のタクシー経営を継いで市中央部の紙屋町に進出する。当初は保有台数3台であったが、同業3社を次々に買収し、昭和34年頃には市内第3位・保有台数32台を誇る会社に成長した。この頃になると組員も八十名を数える規模となり、岡組舎弟の中では一頭地を抜く存在となり、資金面でも岡組を支えていた。
  4. ^ このような意見が、「仁義なき戦い」以降形成されているが、基本的に中国ではなく関西圏、近畿圏を対象としていた山口組が、小領主が割拠している狭く小さい中国筋を力で押していく方針であったかどうかは疑問があり、現在でもなお「神戸から広島に進出したのではなく尾道筋まで勢力圏を伸ばしていた合田一家への対抗策であった」とする声もある。この背景には同一家の総長・合田幸一が山陽道の親分衆から畏敬された存在である点、中国・四国の組のほとんどはその内部に多くの派閥(背景には被差別部落の問題があるとされる)を抱えていたため統制をとるのが困難だった点、が指摘される。
  5. ^ 昭和38年3月1日付けで打越は突然、山口を絶縁した。山口英弘に裏切り行為があったという理由である。山口は三十人もの子分を引き連れて一派を形成した。山口の兄弟分に、後の尾道侠導会会長・森田幸吉がいる。森田は絶縁理由に不信を抱き打越の所へ質しに行った。「自分のところではどうにもならん」と打越は、神戸山口組の意向でることを伝えた。森田は山口の窮状を助けたかった。つてを頼って三代目山口組若頭・地道行雄に面会を求めた。地道に会った森田は具体的な事実をあげて山口英弘の裏切りというのは事実ではないと説明した。森田の説明に偽りがあれば無事では帰れない、命がけの掛け合いであった。地道は森田の義侠心に感心し、「三か月ほど時間をくれ」と絶縁問題解決を約束した。
  6. ^ 昭和42年7月、打越は詐欺罪で逮捕される。従業員用共同住宅を建てるという名目で年金福祉事業団から受けた融資4000万円を、自室や応接室、車庫の増築に流用したという容疑である。これをきっかけに国税庁が動き、さらに陸運局が特別監査を行い、十五項目に及ぶ規則違反を指摘、警察と連動して「ヤクザと取るか、事業を取るか」と迫ったのである。打越には事業を捨ててまでヤクザを続ける性根はもちろん無かった。翌8月19日に神戸・田岡邸を訪れ、組の解散の了解を求め、承諾された。
  7. ^ 薮内と竹野はどちらも元・プロ野球選手という珍しい経歴である。
  8. ^ 大阪市西成区に本拠を置く二代目松田組組長・樫忠義に挨拶に行った帰り道に事件は起こる。白昼、踏切で電車の通過待ちをしていた浅野眞一組長運転の白いベンツに梶山一派が襲いかかった。後部座席中央に山田久が座り左右に副会長の原田昭三・竹野博士が座っていた。合計8発発射された45口径の銃弾は原田昭三はその場で射殺死亡、山田久は胸部を貫通した。山田は胸部を包帯で固めて襲名披露に臨んだ。
  9. ^ 昭和48年8月浅野組組員が俠道会理事長を射殺、翌9月には俠道会が尾道で公判傍聴へ向かう浅野組組員31人を待ち伏せて銃を乱射、4人に重軽傷を負わせている。
  10. ^ 竹野博士は前の親分・山口英弘と現在の親分である山田久の間に挟まれ心労が続いていた。「御大が乗り出して、何とか収めてつかあさい」と波谷に頼んだ。ある日清水春日が「森田と兄弟になってくれんか」と言い出した。波谷は「山田を敵に回す事は出来ません」と断った。「そんなら三人が兄弟になれんか」と清水が言う、その言葉がヒントになった。波谷はまず、下関の合田幸一に力添えを頼み、広島刑務所に山田を訪ねた、山田も容易には承知しなかったが波谷の熱意に押され「わしは撃たれた方じゃが、尾道の森田さんには恨みは無いけん。和議のことは波谷さんに任せます。しかし、笠岡(浅野組)の顔は立てて貰いたい」と山田は度量の太い所を見せた。波谷は広島県警本部を訪れ「広島、尾道の喧嘩を和解させますけん。話が煮詰まって来たら山田を期限付きで保釈させて貰えませんか」と頼みに行っている。それから波谷と清水は尾道を訪れた。森田幸吉は清水の顔を立てて合いには来てくれたが、和解話には取り付く島が無かった。波谷は森田の心が融けるのを辛抱強く待った。その間、浅野眞一のところへは、松田組の樫忠義に行ってもらったり、東奔西走している。森田と波谷が四度目の面会の時「波谷さん、何度も足を運ばせてすみませんのう」「いや、わしのほうはどうということはありません。山田の期限保釈の内に、纏まるものならそうしてもらいたいと真剣に思いよるんです」「わしの方は、死ぬ気でやりよりましたきに、手打ちなど思いもしませんでしたが、ここで清水の叔父貴や波谷さんの熱意に応えにゃ、尾道の街も目茶滅茶になるじゃろうと考えるようになりました。尾道を平和な町にしたいいうんは、先代高橋親分の気持ちですろう」森田はそう言った。「ただ、平和会(大日本平和会)の平田勝市さんが最初に和解の話をもって来られ、断った経緯があるきに手打ちのことは平田さんの顔が立つようにしてもらいたい」「わかりました。私は表に出なくて結構です。広島のやくざが平穏に過ごしてくれるようになるのが願いですけん」と波谷は森田の手を握った。会場の警備には大日本平和会の組員が当たり、有馬温泉の『月光荘』で手打ちの儀式は古式に従って滞りなく行われた。





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