岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出とは? わかりやすく解説

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岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 00:30 UTC 版)

広島抗争」の記事における「岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出」の解説

1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題噂される。 最有力候補打越信夫だが、三羽烏と言われ網野光三郎服部武、原田昭三や、義弟永田重義実力伯仲していた。 そのような折の1961年5月美空ひばり広島公演のため三代目山口組組長田岡一雄若衆山本健一山健組組長)が広島訪れていた。 実力者後ろ盾得て岡組の後継争い有利に進めようとした打越は、山本美能幸三仲介により山口組舎弟安原政雄安原会長)と兄弟盃を交わすことに成功した広島外部勢力進出快く思わなかった岡はこの盃を嫌い、1962年5月跡目を呉の山村辰雄指名した(岡にとって山村兄貴分にあたり跡目格上に譲るのは異例と言えた)。かくして山村率い山村組は呉から広島進出し岡組組員六十人加えて総勢二百二十人大組織となり山陽最大勢力を持つようになった。 当然この事態打越側に衝撃与えた同年6月には打越舎弟山口県宇部市岩本組組長岩本政治山村幹部樋上実の兄弟分山口県徳山市浜部組長浜部一郎との間で抗争起きその手打ち仲裁不手際のため打越窮地追い込まれる。さらに、義理事で九州訪れていた美能らは打越刺客岩本組)を差し向けたとの噂を耳にする。打越はこれを否定するが、ついには指を詰めさせられ美能幸三網野光三郎原田昭三らとの兄弟盃も解消させられた。 打越はそうした窮状再三に渡り山口組本家訴え支援要請した当時山口組側にも思惑があった。1960年入り山口組積極的に中国地方進出図り山陰においては1961年本多会松山太郎殺害し鳥取進出翌年には その鳥取進出していた直参小西音松率い小西一家地元勢力抗争起こし山陰進出着々と進めていた。山陽においては山口組若頭地道行雄地道組長)が岡山三宅芳一率い現金屋の内紛介入して熊本親(後の熊本組組長四代目山口組舎弟)を支援し岡山支配下組み入れるべく展開中だった。 このように中国地方全域攻略することを目的として活動していた山口組にとって山陽の重要拠点広島避けて通れない場所だった。 そこで支援を必要としていた打越思惑一致した再三神戸足を運び、ついに打越は、1962年9月田岡61番目の舎弟となり、打越組が山口組配下入り、「三代目山口組広島支部打越会」と改称することになった打越山口組舎弟となったことに対抗するため山村は、神戸本多会会長本多仁介兄弟盃を1963年2月交わした

※この「岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出」の解説は、「広島抗争」の解説の一部です。
「岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出」を含む「広島抗争」の記事については、「広島抗争」の概要を参照ください。

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