岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出
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「広島抗争」の記事における「岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出」の解説
1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題が噂される。 最有力候補は打越信夫だが、三羽烏と言われた網野光三郎、服部武、原田昭三や、義弟・永田重義も実力は伯仲していた。 そのような折の1961年5月、美空ひばりの広島公演のため三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)が広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを有利に進めようとした打越は、山本と美能幸三の仲介により山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した。 広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡はこの盃を嫌い、1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した(岡にとって山村は兄貴分にあたり、跡目を格上に譲るのは異例と言えた)。かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し岡組組員百六十人を加えて、総勢二百二十人の大組織となり山陽最大の勢力を持つようになった。 当然この事態は打越側に衝撃を与えた、同年6月には打越の舎弟で山口県宇部市の岩本組組長・岩本政治と山村組幹部樋上実の兄弟分で山口県徳山市の浜部組組長・浜部一郎との間で抗争が起き、その手打ち仲裁の不手際のため打越は窮地に追い込まれる。さらに、義理事で九州を訪れていた美能らは打越が刺客(岩本組)を差し向けたとの噂を耳にする。打越はこれを否定するが、ついには指を詰めさせられ、美能幸三、網野光三郎、原田昭三らとの兄弟盃も解消させられた。 打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した。 当時は山口組側にも思惑があった。1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り、山陰においては1961年に本多会の松山芳太郎を殺害し、鳥取に進出。翌年には その鳥取に進出していた直参の小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし山陰進出を着々と進めていた。山陽においては山口組若頭・地道行雄(地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる現金屋の内紛に介入して熊本親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった。 このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた山口組にとって山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった。 そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した。再三神戸に足を運び、ついに打越は、1962年9月に田岡の61番目の舎弟となり、打越組が山口組の配下に入り、「三代目山口組広島支部打越会」と改称することになった。打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は、神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした。
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