後継者争いと現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:17 UTC 版)
若羽黒朋明とは立浪部屋の後継者を巡る問題でも争った。安念山は、1959年に立浪の長女・千恵子と結婚し、1961年7月場所から師匠の現役名「羽黒山」を継承して正式に後継者となった。結婚の経緯は、立浪の後援者の一人に大谷重工業社長で元幕下・鷲尾嶽(大谷米太郎)がおり、大谷や部屋付き親方の玉垣が話を持ちかけて交際を開始、1月に交際が報じられ、同年10月6日に結婚式を執り行った。結果的には若羽黒との後継者争いを制した形だが、実際には安念山の交際が始まった時点で若羽黒には別に意中の女性がおり、立浪夫人によれば千恵子を巡っての争いは当初から存在しなかったとし、立浪自身も1956年の時点で安念山を後継者候補として見ていたという。 「羽黒山」の四股名継承後は勝ち越した時は10勝以上を挙げるものの、負け越した場合も10敗以上を喫するなど思うような相撲が取れず、右膝を負傷したことで1965年3月場所の番付に名前を残したまま現役引退、年寄・追手風を襲名した。しかし、1969年10月14日に立浪が亡くなると、同時に立浪部屋を継承した。1970年には早くも日本相撲協会の理事に当選するなど、親方・師匠としての手腕も期待されていた。師匠としては先代から継承した旭國斗雄を大関へ、黒姫山秀男を関脇へ昇進させたものの二人に続く関取が育たず、1979年の旭國、1982年の黒姫山引退後は部屋の勢いが下降していった。特に黒姫山の引退は、同時に部屋の関取が不在になる事態となった。
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