後継者争いと失意の晩年とは? わかりやすく解説

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後継者争いと失意の晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:44 UTC 版)

李成桂」の記事における「後継者争いと失意の晩年」の解説

李成桂は、八男李芳碩神徳王后康氏の子)に後を継がせようとし、神懿王后韓氏後宮側室)にした。建国奔走した神懿王后韓氏生んだ王子たち、特に五男の李芳遠はその仕打ち激しく反発し1398年反乱起こした第一次王子の乱)。これにより、李芳碩功臣鄭道伝が五男の李芳遠殺されてしまうと、李成桂李芳遠奨める次男李芳果定宗)に譲位し退位してしまう。その後李成桂王子達の反目続き1400年今度は四男の李芳幹反乱を起こす第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧され乱後李芳遠定宗から王位譲位され即位した太宗)。 長男から六男までが神懿王后韓氏の子で、七男と八男が、神徳王后康氏の子である李成桂自分息子達争い嫌気がさし咸興に引きこもって仏門帰依した1402年神徳王后康氏の親戚であった安辺府使の趙思義がむごい仕打ち受けた神徳王后康氏の仇を討つべしと咸鏡道豪族たちを率いて決起した趙思義の乱)。太宗恨みがあった李成桂もこれを後ろ支持したとされる。乱が鎮圧された後、李成桂太宗和解してソウル帰って来て国璽太宗授け正式に朝鮮王として認めた太宗は父から後継者として認められようと咸興使者(差使)を送ったが、李成桂ソウルから差使が来る度に遠くから矢で射て殺してしまったとされ、そこから任務遂行しよう行った人が帰って来ない状態、またはそのような人を指す「咸興差使(함흥차사)」という故事成語生じた。しかしこれはあくまで伝説であり、最後咸興差使としてもっとも有名な朴淳は実は趙思義の乱加わった都巡問使の説得するべく戦地向かい殺されている。その後李成桂政治には関心持たず念仏三昧の生活をしていたと言う1408年74歳薨去した。御陵は健元陵(京畿道九里市東九陵一つ)である。また李成桂自分神徳王后康氏と一緒に葬るべしとの遺言残したが、神徳王后恨んだ太宗はこれを守らなかったため神徳王后は健元陵に葬られることはなく、御陵は都の外へ移された後破壊されその墓石修理使われ民がこれを踏みにじると言う酷い侮辱受けた

※この「後継者争いと失意の晩年」の解説は、「李成桂」の解説の一部です。
「後継者争いと失意の晩年」を含む「李成桂」の記事については、「李成桂」の概要を参照ください。

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