後継者問題の表面化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 03:09 UTC 版)
「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「後継者問題の表面化」の解説
詳細は「国事詔書」および「ポーランド継承戦争」を参照 ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。カール6世による一括相続で継承問題は解決したものの、即位時点で、兄ヨーゼフにも男子がおらず、かつ自身にも一人の子も無く、「男系の後継者」そのものがいない状況であり、ウィーン宮廷は「女の宮廷」とまで言われていた。 スペイン継承戦争のユトレヒト条約と、ほぼ時を同じくしてカール6世は、国事詔書を布告した。領土の分割禁止と男系長子相続を決定し、兄ヨーゼフの娘たちの相続順位は、(将来誕生する)カールの子よりも下位だった。 皇后との間にはなかなか子ができず、ありとあらゆる治療を試みた。1716年に唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折した。翌1717年に誕生した長女マリア・テレジアを後継者にするしかなくなり、1720年、領邦に国事詔書の承認を迫った。兄ヨーゼフの娘たちの結婚にも慎重で、マリア・アマーリエとバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトとの結婚は1722年まで承認しなかった。オイゲン公の武功を背景に、1722年6月にハンガリーも国事詔書を承認したため、家領内の全承認を取り付けることができた。 1724年、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めることを示し、周辺諸国・諸邦の承認を求めた。 先述の通り、貿易に参入した結果、英国と対立しており、同じく英国と対立しているスペイン(両国はジブラルタルをめぐって対立)と1725年にウィーン条約を締結してそれまでの対立を解消した。これに対してイギリス、フランス、オランダはハノーファー条約で同盟し、戦争がおこるように思われたが、翌年にオイゲン公の尽力でロシア・プロイセンとも同盟を締結して孤立から脱した。 1727年からスペインとイギリスのジブラルタルをめぐる小規模な戦争が行われ、1729年にセビリア条約で終結した。スペインはオーストリアの援軍を期待したが、イギリスの外交官の手回しで中立を堅持した。さらに政略結婚を断られたためスペインは同盟を解消した。国事詔書の承認を求めるカール6世は孤立を避けるため、イギリスと新たに1731年にウィーン条約を締結して同盟を結び直した。 全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は1732年に承認、イギリスはオステンド会社の解散と引き換えに1731年に、マリア・テレジアによる家領相続を承認させた。しかし、兄ヨーゼフ1世の女婿たち、マリア・ヨーゼファの夫ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストとマリア・アマーリエの夫バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトや、フランスは同意しなかった。 1733年にポーランド継承戦争が勃発する。前王アウグスト2世唯一の嫡出子であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストは支持を得られず、フランスの干渉によってスタニスワフ・レシチニスキが国王に選出される事態となった。カール6世は、ザクセン選帝侯から相続の承認を得るべく、プロイセン王国及びロシア帝国と同盟し、フランスと対決した。1734年の一連の戦闘はオーストリアの劣勢となり、翌1735年からの長い休戦交渉の末、1738年にウィーン条約が締結された。 この条約で、フリードリヒ・アウグストのポーランド王位と、ザクセン及びフランスからの相続承認を取り付けた。しかし、これと引き換えに、ナポリやシチリア等イタリア方面の所領の多くを手放し、スタニスワフのためにロレーヌ公国(仏:アルザス=ロレーヌ、独:エルザス=ロートリンゲン)をフランスへ割譲した。領地を失ったロートリンゲン公フランツ・シュテファンは、代わってトスカーナ公国が与えられた。 フランツ・シュテファンは、カール6世の長女マリア・テレジアとの結婚を諸邦に認めさせるために、この不利な条約を受け入れた。フランツ・シュテファンはウィーンに遊学してカール6世に息子同然に気に入られており、マリア・テレジアとも相思相愛だった。二人は1736年2月12日に婚礼を挙げ、1737年2月、1738年10月、1740年1月にそれぞれ女児が誕生したが、男児は未だ誕生せず、王位継承問題の解決には至らなかった。 1737年にオスマン帝国との再度の戦争(オーストリア・ロシア・トルコ戦争)に敗れてベオグラードを奪還され、領土は縮小した。
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