後継者指名と王制の復活
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「フランシスコ・フランコ」の記事における「後継者指名と王制の復活」の解説
「フランコ体制下のスペイン」も参照 フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で何者かに継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである。ただし、新たな王家を迎えるのか、旧王家ボルボン家(ブルボン家)による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。かつてスペインを治めていたアブスブルゴ家(ハプスブルク家)などへの接触もあったといわれる。 1947年に、フランコは「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首となること、後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。王位継承法は7月16日の国民投票で成立し、彼は終身の国家元首の地位を得た。 フランコ後継として、支持基盤であった陸軍内部にはボルボン家の復帰を求める声も強く、亡命先のイタリアで死去した前国王アルフォンソ13世の息子で、ボルボン家の家長となっていたバルセロナ伯を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを退けた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}さらに一部にはフランコの娘マリア・デル・カルメン・フランコに自らの地位を継がせ、腹心のルイス・カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが、王制移行を希望する彼により否定された上、1973年にカレーロ・ブランコがETAによるテロで乗っていた自動車ごと爆殺された(英語版)ため、この計画は頓挫した。[要出典] 最終的に、フランコは1969年にアルフォンソ13世の孫・バルセロナ伯の長男であるフアン・カルロスを自らの後継者(皇太子)に指名した。以降は心身の衰えを自覚するようになり、1975年没した。
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