急速な開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/02 10:08 UTC 版)
「ノヴィ・ベオグラード」の記事における「急速な開発」の解説
第二次世界大戦終戦から3年が経過した1948年4月11日、この地は巨大な開発計画の対象となり、これが今日のノヴィ・ベオグラードの誕生の瞬間であった。 次々と建造物が立ち並び、1952年にはノヴィ・ベオグラード自治体が発足した。1955年にベジャニヤ自治体はノヴィ・ベオグラード自治体に統合される。これはこの時代のユーゴスラビア連邦人民共和国における最大の開発計画であり、共産主義政府の威信をかけたプロジェクトであった。 計画の最初の3年間で10万人を超える労働力が投入され、枢軸支配から解放されたばかりのユーゴスラビア各地から技術者が集まり、建造計画が進められた。肉体労働に従事する労働者の多くは、セルビアのいなかから集められた人々であった。十分な機材もないまま、コンクリートは手作業で混合され、一部で馬を用いつつ人力で砂を運び、泥濘地に撒き、整地が進められた。 建造が始まる前段階として、川沿いに砂を盛り、川の水と陸地を分離し、泥濘地を乾かす作業が行われた。 この地に築かれた初期の建造物のひとつが、ユーゴスラビア連邦議会が入居するユーゴスラビア首相府の庁舎であった。庁舎は7万5千平方メートルの敷地を持ち、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊後はユーゴスラビア連邦共和国の議会が使用した。その後この建物はセルビア宮殿と改称され、一部のセルビア政府の機関が使用している。 居住目的で造られた初めての建物は、トシン・ブナル地区に築かれた。ストゥデンツキ・グラード(Studentski Grad)地区は、増大するベオグラード大学の学生の居住地として築かれた。
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