急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)」の解説
テヘドール率いる反乱軍はアベジャネーダの指揮する連邦軍に追い詰められ、6月30日にテヘドールはブエノスアイレス州知事を辞任した。この勝利により、アベジャネーダは連邦議会の承認を得て9月21日に首都令を発し、ブエノスアイレス州からブエノスアイレス市を取り上げ、連邦直轄の首都に定めた。こうしてようやく建国以来長年の懸念だった首都問題が解決した。 こうして政治が安定すると、「1880年の世代」と呼ばれる一群のテクノクラートは国政に携わる中で、アルゼンチンを第二のヨーロッパに作り変えようとし、この時期に西欧化の主導権は彼等によって握られ、様々な分野でアルゼンチンの西欧化がそれまで以上に急速に進むことになる。首都令により、ブエノスアイレスが正式に連邦の首都に定められると、政治の安定によりそれまでの1853年憲法や移民法(1876年)、土地法(1878年)といった移民に便宜を与える諸法律が効果を発揮し、ヨーロッパ人移民の流入の速度が急速に上昇した。1880年から1929年にかけて、イギリス資本とヨーロッパ人移民が流入した。巨額の借款はベアリングス銀行が中心となって引受けた。パリバやドイツ銀行も単独で資本参入した。国内の未開のパンパが開発され、また冷凍船の導入により、ヨーロッパやアメリカ大陸諸国との牛肉や小麦などの畜産物の貿易が盛んに行われるようになると、アルゼンチンの経済は著しく成長した。 1899年に金本位制を導入して決済手段を整理したため、通貨供給量の実質量が減った。1890年11月のベアリング危機に遭って、アルゼンチン投資は一時的に停滞した。株は紙切れとなったが、債権は生きていた。アルゼンチン政府は1891年から1900年までに累計およそ1億6千万金ペソを返済した。これは総輸出所得額の8割に及んだ。返済と並行して各自治体の債務が中央政府の債務に組み込まれ、投資環境が整備された。 1900年にアルゼンチンの外国投資の内約81%がイギリス資本であり、この時期にイギリスの対ラテンアメリカ投資の約38%がアルゼンチンに振り向けられた。このイギリス資本により全土に鉄道が建設され、1910年には線路の総延長は27,794kmに達した。 政治面ではこの頃に移民により無政府主義運動を初めとする各種の社会主義思想がもたらされた。さらにはそれまでの全国自治党 (PAN) による寡頭支配に抵抗して、急進市民同盟による民主主義の実践に向けた運動が、時には暴力を伴いながらも進展した。これにより、アルゼンチンは連邦民主主義を強調するようになった。 このような外国資本と移民による経済の拡大は、確かに繁栄をもたらしたものの、一方で鉄道や農牧業といった基幹産業が外国資本の手中にあることはアルゼンチンの経済的対外従属を深め、また、輸出経済のこのような形での成立は少数の大地主を基盤とする寡頭支配層の確立をもたらした。以降のアルゼンチンの歴史はこのような諸問題を如何にして解決するかが大きな焦点となる。 アルゼンチンも独立後しばらくは他のラテンアメリカ諸国と同様に、今日のアルゼンチンよりも遥かにメスティーソの比率は高かったが、以下に挙げるような様々な要因、特に1871年から1913年までに定着した317万人ものヨーロッパ人の導入により、19世紀の内にアルゼンチンは都市を中心に人種構成までもが変わってしまった。アルゼンチンのように移民を受け入れてきたアメリカ合衆国の外国人比率が15%を越えた年は一度もなかったが、1914年にアルゼンチンの全人口に対する外国人比率は29.9%にまで達していた。現在「南米のパリ」と呼ばれるブエノスアイレスのヨーロッパ的な景観はこの頃に完成したものである。 1880年以降から急速に増加したスペイン、イタリアを主とする白人移民の「洪水」のような流入と元いた住人との通婚、戦争その他による黒人人口の減少、および19世紀半ばのロサスとロカによるインディオ掃討作戦、特に後者の行った「砂漠の開拓作戦」の影響は大きく、この頃から急速に国内人口の白人化が進んだ。「砂漠の開拓作戦」により、それまで決して友好的とは言えなくとも、通婚を含む交流は日常的に続けられていたパンパのインディオは1/10にまで減少し、生き残りはネグロ川以南のパタゴニアの不毛の地に追いやられた。また、内陸部の山岳地帯や、チャコ、パタゴニアといった地方に住むインディオや、ガウチョ、カウディージョ、メスティーソ、アフリカ系アルゼンチン人、そしてヨーロッパ的生活に馴染まない農民や労働者といった大衆らはブエノスアイレスのブルジョワジーを中心とした国造りの中で、内陸部やブエノスアイレス周縁部の発展が犠牲にされ、土着文化が弾圧されるとやはり厳しい立場に立たされた。このように先住民を初めとする土着文化への弾圧と同化政策には激しいものがあるものの、全体としてはアルゼンチンでは白人とインディオの混血が進むよりも虐殺の方が上回ったとは必ずしも言えず、近年の研究によるとアルゼンチン人の56%には先住民の血が流れていることが明らかになっている。そしてこのような相対立する2つのアルゼンチンの成立は、一方でアルゼンチン人の外国人嫌いの感情や、土着的なものへの再評価をもたらした。
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