急速な近代化と「移民の洪水」とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 急速な近代化と「移民の洪水」の意味・解説 

急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)」の解説

テヘドール率い反乱軍アベジャネーダ指揮する連邦軍追い詰められ6月30日にテヘドールはブエノスアイレス州知事辞任した。この勝利により、アベジャネーダ連邦議会承認得て9月21日首都令を発しブエノスアイレス州からブエノスアイレス市を取り上げ連邦直轄首都定めた。こうしてようやく建国以来長年懸念だった首都問題解決した。 こうして政治安定すると、「1880年世代」と呼ばれる一群テクノクラート国政携わる中で、アルゼンチン第二ヨーロッパ作り変えようとし、この時期西欧化主導権彼等によって握られ様々な分野アルゼンチン西欧化それまで以上に急速に進むことになる。首都令により、ブエノスアイレス正式に連邦首都定められると、政治安定によりそれまで1853年憲法移民法1876年)、土地法(1878年)といった移民便宜与え諸法律が効果発揮しヨーロッパ人移民の流入速度急速に上昇した1880年から1929年にかけて、イギリス資本ヨーロッパ人移民流入した巨額借款ベアリングス銀行中心となって引受けたパリバドイツ銀行単独資本参入した国内未開パンパ開発され、また冷凍船導入により、ヨーロッパアメリカ大陸諸国との牛肉小麦などの畜産物貿易盛んに行われるうになると、アルゼンチン経済著しく成長した1899年金本位制導入して決済手段整理したため、通貨供給量実質量が減った1890年11月ベアリング危機遭ってアルゼンチン投資一時的に停滞した紙切れとなったが、債権生きていた。アルゼンチン政府1891年から1900年までに累計およそ1億6千万ペソ返済した。これは総輸出所得額の8割に及んだ返済並行して各自治体債務中央政府債務組み込まれ投資環境整備された。 1900年アルゼンチン外国投資内約81%がイギリス資本であり、この時期イギリスの対ラテンアメリカ投資の約38%がアルゼンチン振り向けられた。このイギリス資本により全土鉄道建設され1910年には線路総延長27,794kmに達した政治面ではこの頃移民により無政府主義運動初めとする各種社会主義思想もたらされた。さらにはそれまで全国自治党 (PAN) による寡頭支配抵抗して急進市民同盟による民主主義実践向けた運動が、時には暴力伴いながらも進展した。これにより、アルゼンチン連邦民主主義強調するようになったこのような外国資本移民による経済拡大は、確かに繁栄もたらしたものの、一方で鉄道農牧業といった基幹産業外国資本の手中にあることはアルゼンチン経済的対外従属深めまた、輸出経済このような形での成立少数大地主基盤とする寡頭支配層の確立もたらした以降アルゼンチンの歴史このような諸問題如何にして解決するかが大きな焦点となる。 アルゼンチン独立後しばらくは他のラテンアメリカ諸国同様に今日アルゼンチンよりも遥かにメスティーソ比率高かったが、以下に挙げるような様々な要因、特に1871年から1913年までに定着した317万人ものヨーロッパ人導入により、19世紀の内にアルゼンチン都市中心に人種構成までもが変わってしまった。アルゼンチンのように移民受け入れてきたアメリカ合衆国外国人比率15%を越えた年は一度もなかったが、1914年アルゼンチン全人口に対す外国人比率は29.9%にまで達していた。現在「南米パリ」と呼ばれるブエノスアイレスヨーロッパ的な景観この頃完成したのである1880年以降から急速に増加したスペインイタリア主とする白人移民の「洪水のような流入元い住人との通婚戦争その他による黒人人口減少、および19世紀半ばロサスロカによるインディオ掃討作戦、特に後者行った砂漠の開拓作戦」の影響大きくこの頃から急速に国内人口白人化進んだ。「砂漠の開拓作戦」により、それまで決し友好的とは言えなくとも、通婚を含む交流日常的に続けられていたパンパインディオは1/10にまで減少し生き残りネグロ川以南パタゴニア不毛の地追いやられたまた、内陸部山岳地帯や、チャコパタゴニアといった地方に住むインディオや、ガウチョカウディージョメスティーソアフリカ系アルゼンチン人、そしてヨーロッパ的生活に馴染まない農民労働者といった大衆らはブエノスアイレスブルジョワジー中心とした国造りの中で、内陸部ブエノスアイレス周縁部発展犠牲にされ、土着文化弾圧されるとやはり厳し立場に立たされた。このように先住民初めとする土着文化への弾圧同化政策には激しいものがあるものの、全体としてアルゼンチンでは白人インディオ混血が進むよりも虐殺の方が上回ったとは必ずしも言えず、近年の研究によるとアルゼンチン人56%には先住民の血が流れていることが明らかになっている。そしてこのような相対立する2つアルゼンチン成立は、一方でアルゼンチン人外国人嫌いの感情や、土着的なものへの再評価もたらした

※この「急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
「急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)」を含む「アルゼンチンの歴史」の記事については、「アルゼンチンの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「急速な近代化と「移民の洪水」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「急速な近代化と「移民の洪水」」の関連用語

急速な近代化と「移民の洪水」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



急速な近代化と「移民の洪水」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアルゼンチンの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS