急速な日立鉱山の発展と娯楽施設の建設
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「共楽館」の記事における「急速な日立鉱山の発展と娯楽施設の建設」の解説
1905年(明治38年)12月、藤田組を退職した久原房之助は茨城県日立村の赤沢銅山を買収し、日立鉱山と改名する。赤沢銅山は佐竹氏の常陸統治時代から開発が始まっていたとも言われ、江戸時代に入るとしばしば採掘が試みられたものの、採算が取れなかったことに加えて、鉱毒問題など鉱害を引き起こして地域住民との間にトラブルが発生し、水戸藩が鉱山開発を規制してしまったため、鉱山開発は思うように進まなかった。 赤沢銅山は明治以降もしばしば開発が試みられたものの、やはり経営が軌道に乗ることはなかった。これまで開発の試みが挫折し続けてきた鉱山を買収した久原房之助であったが、久原は買収した日立鉱山を日本を代表する銅鉱山に成長させることに成功する。明治時代、産業全体がまだ未発達であった日本において銅は数少ない外貨獲得源の一つであり、政府は銅の生産拡大に大きな関心を持っていた。銅の生産は日本の経済発展のけん引役としての期待を担い、成長していく。 久原房之助が日立鉱山を買収した頃、銅の生産に新しい流れが始まっていた。まず、日本の産業発達が本格化する中で重工業が発展し、電力需要が増大して銅の国内市場が拡大しつつあった。また久原房之助が日立鉱山を買収する前に、所長として鉱山再生に尽力した小坂鉱山で成功した生鉱吹精錬は、これまでの精錬法に比べて燃料使用が大幅に節約できた上に、精錬が困難であった複雑な組成の鉱石や低品位の鉱石も処理が可能となったという画期的な技術革新であり、日立鉱山の発展にも大きく寄与した。そして捲揚機を導入するなどの採鉱の電力化、削岩機を採用するなどの機械化も、他の有力銅鉱山よりも遅れて開発が本格化した日立鉱山では、当初から積極的であった。その上、鉱床の幅が広い変成鉱床であるキースラーガ鉱床の日立鉱山は、階段法という新しい方式の採掘法の採用に適しており、1905年(明治38年)末の日立鉱山発足直後から階段法が採用された。更に日立鉱山にとって追い風になったのは常磐線沿線にあるというその立地であり、これは足尾銅山など他の日本の有力銅鉱山よりも遥かに有利であった。このような銅の国内市場の発達、精錬、採鉱の技術革新、恵まれた立地条件を最大限に生かすことによって、日立鉱山は急速に発展していく。 豊富な埋蔵量がある上に時流に乗り、また立地条件にも恵まれた日立鉱山は、早くも創業4年目の1908年(明治41年)には、足尾銅山、小坂鉱山、別子銅山などと並ぶ日本を代表する銅山へと発展する。鉱山の急速な発展は必然的にそこで働く従業員の急増をもたらし、これまで茨城県北部の一寒村にすぎなかった日立は、極めて短期間のうちに多くの人々が働き、居住する場所へと変貌していった。日立鉱山は急速に発展したため、銅の生産に関わる鉱山関連施設の充実と並んで、鉱山で働く人々への日用品の供給や住環境の整備、そして病院、娯楽施設の建設といった福利厚生施設の建設など、生活環境の整備、確立は当初からの大きな課題となった。 また日立鉱山を経営する久原房之助の「一山一家」という理念も、鉱山に働く人々に対する生活環境の整備、確立に大きく寄与した。久原の理想は日立鉱山を労使の対立や鉱山と地域との対立が全く無い、一種の理想郷として建設していくことであった。このため、鉱山で働く人々のために廉価で米や日用品の購入が行える供給所を整備したり、鉱夫が居住する住宅の家賃、電気代、水道代を無料とするなど、鉱山労働者の生活に配慮した施策を打ち出していく。このように日立鉱山で働く人々に対する生活環境の整備、確立が進められていく中で、福利厚生施設整備の一環として娯楽施設の建設が行われることになった。
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