作曲家としての成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 17:59 UTC 版)
「マイケル・ウィリアム・バルフ」の記事における「作曲家としての成功」の解説
バルフは1835年5月、妻と幼い娘を連れてロンドンに戻った。数ヵ月後に彼に最初の成功が訪れる。1835年10月29日のドルリー・レーンでの「The Siege of Rochelle」の初演である。この成功に勇気付けられ、彼は1836年に「The Maid of Artois」を発表し、さらに英語のオペラの発表が続いた。 1838年7月、バルフはS.マンフレード・マッジオーネ(Manfredo Maggione)の台本によって、ハー・マジェスティーズ・シアター用にシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づく新作オペラ「ファルスタッフ Falstaff」を作曲した。初演に際しては友人のルイジ・ラブラーシュ(英語版)(バス)が主役を務めた他、ジュリア・グリジ(ソプラノ)、ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ(英語版)(テノール)、そしてアントニオ・タンブリーニ(英語版)(バリトン)が出演した。この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラでベッリーニの「清教徒」の初演を行ったのと同じ布陣であった。 1841年、バルフはロンドンのライシーアム劇場(英語版)にナショナル・オペラを設立したが、この事業は失敗に終わった。同年に、彼はオペラ「Keolanthe」を初演している。その後、彼はパリへと移って1843年の初頭には「Le puits d'amour」を上演、1844年にはオペラ=コミック座のための「エーモンの4人の息子(英語版)」に基づく自作オペラ、1845年にはオペラ座のための「L'étoile de Seville」が続いた。これらの作品の台本を書いたのは、ウジェーヌ・スクリーブや他である。 一方、1843年にバルフはロンドンに戻り、1843年11月27日にドルリー・レーンの王立劇場で、彼の一番の成功作である「ボヘミアの少女(英語版)」を初演した。この作品の公演は100夜以上を数え、まもなくニューヨーク、ダブリン、フィラデルフィア、ウィーン、シドニーなど、ヨーロッパ中やその他の各地域で上演された。1854年には、「La Zingara」と題されたイタリア語版がトリエステで上演されて大成功となり、これもイタリアやドイツの両国で国境を越えて披露された。さらに1862年には4幕形式のフランス語版「La Bohemienne」がフランスで上演され、これもまた成功を収めた。
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