オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)
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「アントニオ・ヴィヴァルディ」の記事における「オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)」の解説
1713年以降、ヴィヴァルディはヴェネツィアのサンタンジェロ劇場をベースにオペラの作曲に精力的に取り組み始め、1714年の『狂気を装うオルランド(Orlando finto pazzo)』(RV 727)を皮切りに、1718年までの間に10曲を上演して人気を博した。ピエタ音楽院では1716年からは正式に「マエストロ・デ・コンチェルティ」の称号をピエタから与えられていた。1717年後半から1720年までの3年間はヴェネツィアを去り、ハプスブルク家領となったマントヴァの総督、ヘッセン=ダルムシュタット方伯フィリップに宮廷楽長として奉職し、同地で3作ものオペラを上演する。1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を交わした。音楽院にとってヴィヴァルディは大切な人材であり、必要不可欠な人物でもあった。 この間における作品群は、1712年-1714年ごろに「作品4」として『ラ・ストラヴァガンツァ』と題する12曲のヴァイオリン協奏曲集が、ヴィヴァルディの弟子でヴェネツィア貴族のヴィットール・デルフィーノを献呈先として出版されている、1714年に作曲したオラトリオ『ファラオの神モイゼ』(RV 643,紛失)が同年に初演される。また1716年に現存する唯一のオラトリオ『勝利のユディータ』が初演される。1716年からはロジェの娘ジャンヌの下で、献呈先を持たない出版作品集、『6つのソナタ 作品5』、『6つのヴァイオリン協奏曲 作 品6』、『12の協奏曲 作品7』が出版されている。 また1716年から1717年に、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷ヴァイオリニストで、後にコンサート・マスターとなり、ドイツ随一のヴァイオリニストとの評価を得るヨハン・ゲオルク・ピゼンデルが師事しており、ヴィヴァルディは彼と彼の所属するザクセン公の宮廷楽団(シュターツカペレ・ドレスデン)のためのヴァイオリン協奏曲やソナタ、シンフォニア等の楽曲を少なからず作曲した。ピゼンデルがドレスデンに持ち帰ったそれらの楽譜は現在のドレスデン州立図書館に保存され、ヴィヴァルディ研究の重要な資料となっている。
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