オペラ・マエストロ
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「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「オペラ・マエストロ」の解説
1863年7月、サビナは2作目のオペラのリブレットを送った。このオペラは、『売られた花嫁』と題されたライト・コメディであった。スメタナは、次の3年間でこのオペラの作曲を行った。『ボヘミアのブランデンブルク人』の成功によって、仮劇場の運営者は、新しいオペラの上演に簡単に同意した。『売られた花嫁』は、1866年5月30日に、セリフ付きのオリジナルの二部構成版で上演された。このオペラは、いくつかの改訂と再構成が行われ、最終的に三部構成となり、やがて、スメタナの国際的な名声を確立するに至った。ただ、このオペラの初演は失敗に終わった。当時は、ボヘミアがプロイセン王国による侵攻の脅威にさらされており、普墺戦争の開戦目前という緊迫した時期な上、この年の中でも最も暑い夕方であったことが原因と言われる。当然、観客の入りは悪く、支出を賄うこともできず、赤字であった。1870年9月、改訂後の最終版を仮劇場で上演した際は、途方もない成功を収めている。 1866年、スメタナは、ドイツ軍の侵略を内容に含んでいる『ボヘミアのブランデンブルク人』の作曲家として、自身がプロイセン侵略軍の標的にされるのではないかと考え、交戦が終わるまでプラハから避難した。8月23日にプラハ条約が締結され、普墺戦争は3か月弱で終戦となった。終戦によって、スメタナは9月にプラハに戻り、それからすぐに、仮劇場の首席指揮者としての職を得て、長年の野心を達成した。この職で、年1200ガルデンの報酬が支払われた。またこのオーケストラには、ヴィオラ奏者として活動していたアントニン・ドヴォルザークが在籍しており、ドヴォルザークは直接教えを受けている。適切なチェコオペラの骨子が無い中で、最初のスメタナはヴェーバーや、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニ、グリンカの作品を上演している。この時には、自身の『売られた花嫁』の再上演も行っている。スメタナによるグリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』のプロダクションのクオリティは、グリンカの擁護者であったミリイ・バラキレフを激怒させている。これは、長年にわたる2人の間の対立の原因となった。1868年10月16日、チェコの音楽家を代表するスメタナは、将来の国民劇場の礎石を築くことに貢献した。スメタナは、この時のために『祝典合唱曲』を書いた。これと同じ日の夕方、スメタナの3番目のオペラ、『ダリボル』が、プラハのNovoměstské divadloで初演されている。最初の反応は、温かいものであったが、その評判は芳しくなく、スメタナはその失敗を受け入れざるを得なかった。このオペラはすぐに、仮劇場の指揮者の地位から引きずりおろそうとする圧力に続いて、スメタナへの一連の攻撃の基礎となった。
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