青年期と作曲家としての活動とは? わかりやすく解説

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青年期と作曲家としての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:16 UTC 版)

ベンジャミン・ブリテン」の記事における「青年期と作曲家としての活動」の解説

1930年奨学金得てロンドン王立音楽大学RCM)に入学し大学ではジョン・アイアランド作曲法)とアーサー・ベンジャミンピアノ)にそれぞれ師事した。なおブリテンアイアランドに対してほとんど顧みなかったという。在学中数多く習作書いていたが、『シンフォニエッタ』(作品1、1932年)、『幻想四重奏曲』(作品2、1932年)、『シンプル・シンフォニー』(作品4、1933年-1934年)などを生み出している。この『シンプル・シンフォニー』は以前習作素材改作した作品である。またモーツァルトシューベルトとともにマーラーシェーンベルクベルクストラヴィンスキーショスタコーヴィチらの作曲家興味示し同時に影響受けている。とくに後者ベルクに関しては、当時台頭しつつあった前衛的な作風にその志向持ち彼に師事することを考え弟子入り志願していたという。しかし師のブリッジ両親らに反対され、その上1935年ベルク急死もあって結果的に実現はしなかった(自身でも「私はアルバン・ベルク弟子入りしたいと願っていた。でもベルク急死果たせなかった」とコメント残している)。 1934年音楽大学卒業すると、前年1933年)に父ロバート没したこともあり自活のため1935年GPOフィルム・ユニット社(イギリス郵政局映画部)に入社し、翌1936年まで勤務した。ここでは主にドキュメンタリー映画記録映画のための伴奏音楽作曲する仕事が主であった1935年1年間担当した映画音楽13作で、36年は8作という多さで、好評博した作品もある)。スタジオで多く友人親交したが、その中の一人台本担当していた詩人ウィスタン・ヒュー・オーデン知り合っている。オーデンとは映画石炭表情』と『夜の郵便』を共同取り組んだり、『私たち狩りをする先祖たち』(作品8、1936年)や『英雄のバラード』(作品141939年)など彼の詩による作品作曲している。 1937年に『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』を作曲し同年8月25日ザルツブルク音楽祭ボイド・ニール合奏団によって初演され国際的な名声を得るとともに出世作となった同年テノール歌手ピーター・ピアーズ知り合いピアーズとは生涯にわたり盟友として関係を築く。また母イーディス死去。 この時期作品には『ピアノ協奏曲』(作品131938年)などが挙げられる

※この「青年期と作曲家としての活動」の解説は、「ベンジャミン・ブリテン」の解説の一部です。
「青年期と作曲家としての活動」を含む「ベンジャミン・ブリテン」の記事については、「ベンジャミン・ブリテン」の概要を参照ください。

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