青年期と作曲家としての活動
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「ベンジャミン・ブリテン」の記事における「青年期と作曲家としての活動」の解説
1930年、奨学金を得てロンドンの王立音楽大学(RCM)に入学し、大学ではジョン・アイアランド(作曲法)とアーサー・ベンジャミン(ピアノ)にそれぞれ師事した。なおブリテンはアイアランドに対してほとんど顧みなかったという。在学中は数多くの習作を書いていたが、『シンフォニエッタ』(作品1、1932年)、『幻想四重奏曲』(作品2、1932年)、『シンプル・シンフォニー』(作品4、1933年-1934年)などを生み出している。この『シンプル・シンフォニー』は以前の習作を素材に改作した作品である。またモーツァルトやシューベルトとともにマーラーやシェーンベルク、ベルク、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチらの作曲家に興味を示し、同時に影響を受けている。とくに後者のベルクに関しては、当時台頭しつつあった前衛的な作風にその志向を持ち、彼に師事することを考え、弟子入りを志願していたという。しかし師のブリッジや両親らに反対され、その上1935年にベルクの急死もあって結果的に実現はしなかった(自身でも「私はアルバン・ベルクに弟子入りしたいと願っていた。でもベルクの急死で果たせなかった」とコメントを残している)。 1934年に音楽大学を卒業すると、前年(1933年)に父ロバートが没したこともあり自活のため1935年にGPOフィルム・ユニット社(イギリス郵政局映画部)に入社し、翌1936年まで勤務した。ここでは主にドキュメンタリー映画や記録映画のための伴奏音楽を作曲する仕事が主であった(1935年の1年間に担当した映画音楽は13作で、36年は8作という多さで、好評を博した作品もある)。スタジオでは多くの友人と親交したが、その中の一人に台本を担当していた詩人のウィスタン・ヒュー・オーデンと知り合っている。オーデンとは映画『石炭の表情』と『夜の郵便』を共同で取り組んだり、『私たちの狩りをする先祖たち』(作品8、1936年)や『英雄のバラード』(作品14、1939年)など彼の詩による作品を作曲している。 1937年に『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』を作曲し、同年の8月25日にザルツブルク音楽祭でボイド・ニール合奏団によって初演され、国際的な名声を得るとともに出世作となった。同年にテノール歌手ピーター・ピアーズと知り合い、ピアーズとは生涯にわたり盟友として関係を築く。また母イーディスが死去。 この時期の作品には『ピアノ協奏曲』(作品13、1938年)などが挙げられる。
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