青年期と戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:19 UTC 版)
F. L. (ピーター) ルーカスはブラックヒース(英語版)で育ち、父親のF. W. Lucas (1860年–1931年) が校長をしていたコルフ・スクール(英語版)で教育を受けた。1910年からはラグビースクールで、引退前のソポクレス学者ロバート・ホワイトロー (1843年–1917年) の個人指導を受けた。ルーカスはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学生となり、1913年に古典学部トライポス制度(英語版)の奨学金を受け、1914年にはピット奨学金(英語版)と、ポーソン賞(英語版)を獲得した。1914年1月にはジョージ・エドワード・ムーアの影響を受けてケンブリッジ使徒会(英語版)会員に選ばれたが、それは戦争前の最後の選出だった。 ベルギー強奪(英語版)の運命をケンブリッジが握っていると考えた彼は、1914年10月19歳のときに志願し、11月には入隊し、1915年からは王立西ケント連隊(英語版)第7大隊の少尉としてフランスに赴いた。1915年8月から彼はフリクールとマメッツの向かいにあるソンムの塹壕にいた。1916年5月に榴散弾で負傷した。その年の10月ジョン・メイナード・ケインズ宛に、「物事の巨大な気まぐれをただ眺めながら、キュクロープスの口の中で消えてしまう自分を眺めている」と彼は書き送っている。1917年1月に彼は中尉として前線に戻り 、2月17日アンカー作戦(英語版)によりグランクール(英語版)近くの戦場に赴き、2月22日に殊勲報告書に名を挙げられたものの、3月4日に毒ガスを浴びた。 彼は17か月を戦時病院で過ごした。1917年9月までに彼は、名誉と正義の大義は勝利の渇望のために失われた、と感じた (「我々は条件を提示せずに戦い続ける用意ができすぎていた」)。イギリスのチャタム工廠で駐屯地勤務が可能と認められ、彼は使徒仲間のケインズの助力でフランスへ戻り 、1918年8月から休戦まで彼はイギリス情報部隊(英語版) (イギリス第3軍(英語版)本部) の参謀中将として、バパウムとル・ケノワ近くでドイツ軍捕虜の取り調べに当たった。休戦直後の1918年11月、スペインかぜの流行で肺の傷が再び開いてしまい、彼は命の危険にさらされたった。1919年1月に彼はケンブリッジに戻った。 湖畔を歩きながら「[1919年の]復活祭の朝キッズティパイク(英語版)で、ホーズ湖とヘイズ湖の間に、山々の雪峰の上に春のまばゆい太陽が昇り、フェアフィールドからブルカトラまで、もし私が神秘主義者なら神秘的体験と名付けるほどの、法悦と酩酊の瞬間がもたらされた」。
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