青年期と戦争体験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。 1944年夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられる。9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され、ここで格納庫の屋根にするスレートを作った。 1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった。6月、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。 同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり、従って旧制中学校からの入学が可能であった。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。
※この「青年期と戦争体験」の解説は、「手塚治虫」の解説の一部です。
「青年期と戦争体験」を含む「手塚治虫」の記事については、「手塚治虫」の概要を参照ください。
- 青年期と戦争体験のページへのリンク