青年期の活動とは? わかりやすく解説

青年期の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:36 UTC 版)

李相佰」の記事における「青年期の活動」の解説

その後李相佰日本渡り早稲田大学第一高等学院現在の早稲田大学高等学院・中学部)を経て1923年早稲田大学文学部社会哲学科に入学した早稲田第一高等学院では、1920年浅野延秋が「バスケットボール同好会」を始めた第一高等学院李相佰ははじめ軟式庭球部に属していたが、バスケットボール同好会にも参加するようになり、以後バスケットボールと関わっていくことになる。 李相佰身長は180cmを超えかなりの長身であった1923年早稲田大学正式に発足したバスケットボール部参加日本最初大学バスケットボールチームで、李相佰センター務めた1924年初め開催され明治神宮競技大会第1回明治神宮競技大会)では東京代表として出場し優勝した1924年全日本学生籠球連合現在の関東大学バスケットボール連盟前身)の結成に関わった。1927年早稲田大学文学部社会哲学科を卒業早稲田大学大学院進学して東洋学社会学学んだ1930年修士課程修了)。また、早稲田大学東洋思想研究所で研究員務めた日本での在学研究中にも頻繁に京城日本往来朝鮮学界で学者たちと交流しており、震学会朝鮮語版)(1934年結成)の結成準備参加しその会員となった1927年大学卒業後、母校バスケットボール部監督引き受けたバスケットボール強化のためには本場アメリカで学ばなければならないと、政治家冨田幸次郎バスケットボール部主将冨田毅郎の父)を説得して遠征費用調達し日本学生バスケットボールチームとして初め米国本土遠征した。李相佰は英語の発音こそ「典型的な日本式であったというが文法問題はなく、ジェームズ・ネイスミスやフォレスト・クレア・アレン(英語版と書信をやりとりした遠征からの帰国後、各大学OB集めて「フェニックスクラブチーム」を組織した大学在学中から競技理論競技規則確立関心持ち1930年にはバスケットボール指導書として『指導籠球理論実際』を出版著者名義は李想白)。総論個人基礎技術指導団体競技論などからなる大部書籍619ページ)であるが、写真説明図を多用した。この書籍当時バイブル的な存在になり、日本のバスケットボール技術向上に寄与した。このほか、大日本体育協会の『アスレチックス』や大日本バスケットボール協会機関誌籠球』に、技術戦術扱った多く論稿発表した李相佰みずから指導者育成のために全国に赴き、その理論行き渡らせたと評される1930年9月30日大日本バスケットボール協会設立に際して発起人一人となり主導的な役割演じる。それまでバスケットボールは、大日本体育協会現在の日本スポーツ協会前身)の薬師寺尊正運営任されていたが、ここから李相佰らが独立するとなった形式の上では、大日本体育協会の下に大日本バスケットボール協会作られることとなった)。大日本バスケットボール協会設立は「YMCAバスケットボール」から「学生らのバスケットボール」への完全移行を示すものとされる李相佰大日本バスケットボール協会規則委員編纂委員務めとともに審判委員競技委員にも関わった。 李相佰1931年大日本体育協会常務理事就任また、東京オリンピック大会招致委員準備委員務めアメリカ、イギリスドイツ、フランススウェーデンポーランドなどを訪問した1932年には、ロサンゼルスオリンピックの日本選手団役員となる。この時期李相佰日本体育協会日本オリンピック委員会通じバスケットボールオリンピック正式種目採択運動展開した。これは、アメリカバスケットボール関係者による運動1929年頃より、フォレスト・アレンらが関わっていた全米バスケットコーチ協会NABC)らが展開していた)を後援することとなった大日本バスケットボール協会としては、1940年東京オリンピックバスケットボール公式種目として実現させることが目標置かれていた。 1935年には、大日本体育協会専務理事就任した1936年にはベルリンオリンピック日本代表選手総務としてベルリン赴いたベルリンオリンピックは、バスケットボールが正式種目となった初めての大会で李相佰は(竹崎道雄とともに審判員務めたバスケットボールにおいて日本人日本国籍有する者)が国際審判員務めた最初ケースとされる1937年日中戦争勃発すると、スポーツ巡ってさまざまな影響出た大日本体育協会理事として李相佰は、極東選手権競技大会解散後これに代わる日本主導総合競技会開催東亜競技大会参照に対して反対急先鋒となる一方バスケットボール単独東洋選手権大会開催あたった1939年7月)から1941年にかけて早稲田大学在外研究員として、日本占領下の中国北京)に派遣され東洋学研究した。この時期には、占領地での文化工作一環としてスポーツ有用性訴え文章発表してもいる。 1940年行われた創氏改名では、最後まで日本風氏名改名しなかった。1940年12月大日本バスケットボール協会が行った創立10周年記念式典功労者として表彰された。 1944年10月呂運亨結成した地下独立運動団体である建国同盟 (ko:건국동맹) に参加した

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