青年期の活動
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その後李相佰は日本に渡り、早稲田大学第一高等学院(現在の早稲田大学高等学院・中学部)を経て、1923年に早稲田大学文学部社会哲学科に入学した。 早稲田第一高等学院では、1920年に浅野延秋が「バスケットボール同好会」を始めた。第一高等学院で李相佰ははじめ軟式庭球部に属していたが、バスケットボール同好会にも参加するようになり、以後バスケットボールと関わっていくことになる。 李相佰の身長は180cmを超え、かなりの長身であった。1923年に早稲田大学で正式に発足したバスケットボール部に参加。日本最初の大学バスケットボールチームで、李相佰はセンターを務めた。1924年に初めて開催された明治神宮競技大会(第1回明治神宮競技大会)では東京代表として出場し、優勝した。 1924年、全日本学生籠球連合(現在の関東大学バスケットボール連盟の前身)の結成に関わった。1927年、早稲田大学文学部社会哲学科を卒業。早稲田大学大学院に進学して東洋学・社会学を学んだ(1930年に修士課程を修了)。また、早稲田大学東洋思想研究所で研究員を務めた。日本での在学・研究中にも頻繁に京城と日本を往来、朝鮮の学界で学者たちと交流しており、震檀学会(朝鮮語版)(1934年結成)の結成準備に参加しその会員となった。 1927年の大学卒業後、母校のバスケットボール部監督も引き受けた。バスケットボール強化のためには本場アメリカで学ばなければならないと、政治家の冨田幸次郎(バスケットボール部主将冨田毅郎の父)を説得して遠征費用を調達し日本の学生バスケットボールチームとして初めて米国本土に遠征した。李相佰は英語の発音こそ「典型的な日本式」であったというが文法に問題はなく、ジェームズ・ネイスミスやフォレスト・クレア・アレン(英語版)と書信をやりとりした。遠征からの帰国後、各大学のOBを集めて「フェニックスクラブチーム」を組織した。 大学在学中から競技理論・競技規則の確立に関心を持ち、1930年にはバスケットボールの指導書として『指導籠球の理論と実際』を出版(著者名義は李想白)。総論、個人の基礎技術と指導、団体競技論などからなる大部の書籍(619ページ)であるが、写真と説明図を多用した。この書籍は当時のバイブル的な存在になり、日本のバスケットボール技術向上に寄与した。このほか、大日本体育協会の『アスレチックス』や大日本バスケットボール協会機関誌『籠球』に、技術や戦術を扱った多くの論稿を発表した。李相佰みずから指導者育成のために全国に赴き、その理論を行き渡らせたと評される。 1930年9月30日、大日本バスケットボール協会設立に際しては発起人の一人となり主導的な役割を演じる。それまでバスケットボールは、大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会の前身)の薬師寺尊正が運営を任されていたが、ここから李相佰らが独立する形となった(形式の上では、大日本体育協会の下に大日本バスケットボール協会が作られることとなった)。大日本バスケットボール協会設立は「YMCAのバスケットボール」から「学生らのバスケットボール」への完全移行を示すものとされる。李相佰は大日本バスケットボール協会の規則委員と編纂委員を務めるとともに、審判委員と競技委員にも関わった。 李相佰は1931年に大日本体育協会の常務理事に就任。また、東京オリンピック大会の招致委員・準備委員を務め、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、ポーランドなどを訪問した。 1932年には、ロサンゼルスオリンピックの日本選手団の役員となる。この時期、李相佰は日本体育協会と日本オリンピック委員会を通じ、バスケットボールのオリンピック正式種目採択運動を展開した。これは、アメリカのバスケットボール関係者による運動(1929年頃より、フォレスト・アレンらが関わっていた全米バスケットコーチ協会(NABC)らが展開していた)を後援することとなった。大日本バスケットボール協会としては、1940年東京オリンピックにバスケットボールを公式種目として実現させることが目標に置かれていた。 1935年には、大日本体育協会専務理事に就任した。1936年にはベルリンオリンピックの日本代表選手団総務としてベルリンに赴いた。ベルリンオリンピックは、バスケットボールが正式種目となった初めての大会で、李相佰は(竹崎道雄とともに)審判員を務めた。バスケットボールにおいて日本人(日本の国籍を有する者)が国際審判員を務めた最初のケースとされる。 1937年に日中戦争が勃発すると、スポーツを巡ってもさまざまな影響が出た。大日本体育協会理事としての李相佰は、極東選手権競技大会解散後これに代わる日本主導の総合競技会開催(東亜競技大会参照)に対しては反対の急先鋒となる一方、バスケットボール単独で東洋選手権大会開催にあたった。 1939年(7月)から1941年にかけて早稲田大学在外研究員として、日本占領下の中国(北京)に派遣され、東洋学を研究した。この時期には、占領地での文化工作の一環としてのスポーツの有用性を訴える文章を発表してもいる。 1940年に行われた創氏改名では、最後まで日本風氏名に改名しなかった。1940年12月、大日本バスケットボール協会が行った創立10周年記念式典で功労者として表彰された。 1944年10月、呂運亨が結成した地下独立運動団体である建国同盟 (ko:건국동맹) に参加した。
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