青年期と王位継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 05:13 UTC 版)
「ペドロ3世 (アラゴン王)」の記事における「青年期と王位継承」の解説
ペドロはアラゴン王ハイメ1世(征服王)と2番目の妻ビオランテ・デ・ウングリアの長男である。弟にハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)がおり、姉妹にビオランテ(後のカスティーリャ王妃)やイサベル(後のフランス王妃)がいる。 1260年またはそれ以前に、ペドロはニカイア帝国の皇帝テオドロス2世ラスカリスの末娘エウドクシア・ラスカリス(英語版)と婚約した。しかし1261年にはエウドクシアの兄弟が皇帝位を失ったため婚約は解消され、エウドクシアはペドロではなくテンダ伯と結婚している。1262年6月13日、ペドロはシチリア王マンフレーディの娘でありシチリア王国の相続人であるコンスタンサと結婚した。青年期には父ハイメ1世がムーア人に対するレコンキスタの過程で行った数々の戦争で多くの軍事経験を得た。 1276年に父王ハイメ1世が死去すると、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土はアラゴンとカタルーニャに分割された。長男であるペドロにはアラゴンやバレンシア、カタルーニャの大部分が与えられた。一方で次男のハイメには、バレアレス諸島(やがてマヨルカ王国)、北カタルーニャ(ルシヨン郡、コンフラン郡、カジール(英語版)、モンペリエ伯領のラングドック地方)が与えられている。1276年11月、ペドロとコンスタンスはアラゴン連合王国の首都であるサラゴサで戴冠した。この式典でペドロは祖父のペドロ2世がローマ教皇に対して負っていたあらゆる封建的義務を放棄した。
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