青年期と初期の旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 08:58 UTC 版)
「ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト」の記事における「青年期と初期の旅行」の解説
ブルクハルトはローザンヌで生まれた。 ライプツィヒとゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンで学ぶと、1806年の夏にイングランドを訪れ、自然学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハからジョゼフ・バンクスに宛てた招待状を届け、アフリカ協会の会員と共にニジェール川の水源を発見する遠征隊を立ち上げようと1809年に申し出を受理した。ムスリムとして受け入れられればアフリカへの旅は容易だとの信念のもと、申し出が受け入れられると、ブルクハルトはアラビア語を学ぶためにレバントへの旅行を計画した。 準備としてブルクハルトは短期間ケンブリッジ大学でアラビア語を学び、酷暑の時期にイングランドの田舎で帽子を被らずに放浪し野菜と水で生活し吹きさらしの場所で眠ることで探検家としての厳しい体験に向けた準備をした。 ブルクハルトは1809年3月にマルタに向けてイングランドを出発し、そこから次の秋にアラビア語を完全なものにしシャリーアを学ぶためにシリアのアレッポに赴いた。 東洋の生活に関する知識を更に得るためにムスリムに変装し、名前をシェイク・イブラヒム・イブン=アブダッラーとした。家族は否定したが、イスラム教への改宗が偽りのないものであったとの指摘がある。 2年間をレバントで過ごすと、アラビア語を完全に習得し、重要な試験を経てイスラム教の殆どを学んだムスリムがシャリーアの博士であると自称することに疑いを持たないほどにクルアーンやイスラム教とシャリーアに関する注釈の正確な知識があった。
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