青年期から終戦まで
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1912(明治45年)7月10日、熊本県天草郡樋島村(現・熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島)に生まれる。1925年(大正14年)4月、熊本県立天草中学校(現・熊本県立天草高等学校)に入学。1927年(昭和2年)7月に熊本県立八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)へ転校ののち、1930年(昭和5年)3月に卒業。転校は熊本県立天草農業学校(現・熊本県立苓明高等学校)の生徒と乱闘した不祥事が原因とされる。 1930年(昭和5年)、朝鮮半島へ渡り二六新報に入社、新聞記者となる。記者時代には「森久」というペンネームを使った。記者としての足跡を示す資料はほとんど残っておらず、わずかに「船と包丁とクリーク」という随筆が一篇、投稿記事として確認されている 1933年(昭和8年)1月に召集を受けるが、1934年(昭和9年)11月、満期除隊となり熊本へ帰る。1935年(昭和10年)6月、経緯は不明だが、熊本県警察部に警察官として就職。人吉警察署勤務となる。同年10月結婚。 国家総動員法が発令された1938年(昭和13年)3月、熊本県警察部の本部へと転勤となるも、同年10月、臨時召集され中国へ渡る。1940年(昭和15年)12月、召集解除となり帰国。警察官として復職。1942年(昭和17年)2月、熊本北警察署へ配属、特高課主任となる。1945年(昭和20年)8月の終戦を迎え警察署を退職。この間の経歴については、1951年の新聞記事に以下のように紹介されている。 一度シャベリ出したら滔々立板に水・・・・とまでいかなくても、理路整然とした意見をのべまくるのが、龍ヶ岳村長森国久だ。だからといってシャニムニ自己の意志だけを押し通すという議論とはまた違い、引く時には引くスベを心得ている理知的な首長さん。そこで郡町村会あたりでは『カミソリ』の異名まである位のヤリ手村長だ。まづ森村長の略歴を調べてみると、明治45年7月10日樋島村生まれ、天草中学二年生の時、天草農校生ら10数人と斬ったハッたの大乱闘を演じて退校寸前に至り、機をみた森氏はいち早く学校側の態度決定前に八代中学へ転校、職員会議を開いて悪童生徒の追放を協議していた教授連をアッと言わせたこともあった。学校を卒へるや大陸への夢絶ちがたく朝鮮へ渡り、二六新報社という政治新聞社に2年ばかりいて縦横に筆陣をハって世の社会悪と戦った。昭和10年6月、熊本県警察練習所に入所。同11年県巡査拝命、13年巡査部長拝命、更に半年後は警部補佐就任、トントン拍子の異様な出世ぶりをみせ、終戦当時は熊本北署の特高主任という要職にあった。 昭和26年、樋島村長選挙に出馬、見事強敵を打ち破って“村長の座”に就任、始めて郡政界にお目見得した。更に昭和29年樋島が高戸、大道と合併して龍ケ岳村として発足するや、再び初代村長に売って出てこれも見事当選。現在に至る。 「センダンは双葉より香し」と言うことばがあるが、学生時代から既に向こう見ずの生一本な性格で相当名を売り、天中時代の同級生園田直(現代議士)松岡義昌(現県議)氏らも一目おいていた位の腕白ぶりだったが、成人してからもこの気性はなかなか直らず、今もって時たま茶目っ気まじりの皮肉で町村会あたりをひっくり返すことがある。この手腕?は、一方村政上にも大いに振るい、大体からウルサ型の多い樋島、高戸、大道の旧三ヶ村を合併町村中“一番恵まれた龍ケ岳”に育てた功績は文句なしに高く買わねばならない。 このほか事業面でも樋島ー高戸間の村営渡し船就航、高戸、樋島の水道敷設などは現在では大きな村の財源にもなっている。更に特異な村造りとして世人の注目を集めている「村道、部落道の舗装工事」は同氏が提唱した五カ年計画で毎年材料費か40万を村費で負担、労力を部落民の奉仕で行うという、言わば村民と村当局が一心同体の村造り事業である。等々・・・とにかくヤリ手村長だ。ほとばしる様な情熱は、必ずや龍ケ岳を住みよい明るい郷里に造りあげるであろう。 — 「おらが首長どんやりて村長の異名」天草新聞、1951年3月
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