青年期から「レキシントン」艦長まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 14:00 UTC 版)
「フレデリック・C・シャーマン」の記事における「青年期から「レキシントン」艦長まで」の解説
卒業後は装甲巡洋艦「モンタナ」(USS Montana, ACR-13) を振り出しに、戦艦「オハイオ」 (USS Ohio, BB-12) 、装甲巡洋艦「メリーランド」 (USS Maryland, ACR-8) に乗り組み、1917年から参戦した第一次世界大戦にはモニター「シャイアン(英語版)」 (USS Cheyenne, BM-10) 、潜水艦H-2(英語版) (USS H-2, SS-29) およびO-2(英語版) (USS O-2, SS-63) 乗り組みとして参加した。大戦後は戦艦「ミネソタ」 (USS Minnesota, BB-22) 、「ウェストバージニア」 (USS West Virginia, BB-48) 、軽巡洋艦「デトロイト」 (USS Detroit, CL-8) に勤務。飛行訓練を受けパイロットとなった後、1937年に部隊指揮官として空母「サラトガ」 (USS Saratoga, CV-3) 乗り組みとなる。1938年にはサンディエゴ海軍航空基地で勤務し、大佐に昇進後、1940年には「レキシントン」 (USS Lexington, CV-2) 艦長に着任して太平洋戦争開戦を迎える。 開戦当時、「レキシントン」はミッドウェー島へ飛行機の輸送任務を行っていた、開戦を受けて「レキシントン」以下第12任務部隊は真珠湾に引き返し、臨時編成の艦隊を仕立ててウェーク島の救援に急行するも、12月23日に陥落して救援は成らなかった。1942年1月11日、日本の潜水艦伊号第六潜水艦(伊6)の雷撃により「サラトガ」が損傷したため、「レキシントン」は「サラトガ」に代わってウィルソン・ブラウン中将(アナポリス1902年組)の第11任務部隊に移り、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲ではウェーク島を攻撃することになっていたが、随伴の給油艦ナチェス(USS Neches, AO–5) が日本潜水艦伊号第七二潜水艦(伊72)の雷撃で失われ、攻撃は中止された。2月から3月にかけては、第11任務部隊はニューギニア方面で戦闘を行い、3月10日には空母「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-5) を基幹とするフランク・J・フレッチャー少将(アナポリス1906年組)の第17任務部隊(英語版)と合同でラエ、サラモアに上陸した日本軍を、104機の艦載機による南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃で痛めつけた(ラエ・サラモアへの空襲)。その後「レキシントン」を含む第11任務部隊は真珠湾で整備ののち珊瑚海に向かい、ポートモレスビー攻略を狙う日本艦隊との間で珊瑚海海戦を戦う。しかし、「レキシントン」は空母「翔鶴」および「瑞鶴」の艦載機の攻撃で大きな損害を受け、やがて激しい爆発を起こして消火しきれないほど炎上。シャーマンは総員退艦を令し、乗組員を退去させたあと、「レキシントン」は駆逐艦フェルプス(英語版) (USS Phelps, DD-360) の魚雷により処分された。アメリカ軍は、日本軍のポートモレスビー侵攻を最終的に断念させたことで、戦略的勝利を得ることができた。
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