青年期とフランス革命
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「ルイ=アレクサンドル・ド・ローネー」の記事における「青年期とフランス革命」の解説
出生地についてはモンペリエ、ヴィルヌーヴ・ド・ベルグ(英語版)、あるいはアントレーグ=シュル=ヴォラーヌ(英語版) など諸説があるものの、ヴィヴァレ地方の貴族の家に生まれたアントレーグ伯爵ルイ=アレクサンドル・ド・ローネーは14歳で軍隊に入隊し、最初はヴェルサイユ宮殿の王の護衛隊(英語版)の少尉、その後、叔父のギニャール・ド・サン=プリースト伯爵(英語版)の庇護を受けて王立ピエモンテ騎兵連隊(フランス語版)の大尉となった。アントレーグは1770年にジャン=ジャック・ルソーに面会し、その関係はルソーが亡くなるまで続いた。また1776年にはフェルネーにヴォルテールを訪ねて数ヶ月滞在している。啓蒙時代の偉人たちに接するにつれて軍人としてのキャリアに興味を失っていった彼は、これらの師の理念に影響されて1778年にみずから軍職を辞した。その後まもなくサン=プリースト伯爵が駐オスマン帝国大使に任命されると、アントレーグはこれに同行してコンスタンティノープルに赴いた。同年、彼はエジプトへの小旅行に参加し、翌1779年にはフランスへの帰国の途中ワルシャワ、クラクフ、ウィーンを訪れている。 パリに戻ったアントレーグ伯爵は哲学者や芸術家たちと頻繁に交流し、ニコラ・シャンフォール(英語版)やオノーレ・ミラボー、ラ・アルプ(英語版)など、将来の革命家たちと親交を深めた。アントレーグは人を魅惑する方法をすでに知っており、それが後に彼の強みとなった。「彼の快活な顔、上品なマナー、教養と独創的な心が彼を大きな成功に導いた。彼はまた作家や芸術家を支援し 、オペラ座のプリマドンナで王妃マリー・アントワネットのお気に入りのオペラ歌手の一人だったサン=ユベルティ夫人の愛人でもあった。 常に世紀の哲学的思想に触れ、革命直前の人々の心をつかんだ熱情を共有していた彼は、1788年に『全国三部会についての覚え書。その権利と招集の方法について』という作品を発表した。彼は第三身分を「国家」と捉えた一人であり、「第三身分は人民であり、人民は国家の基礎であり、実際に国家そのものである......国家のすべての権力は人民にあり、すべての国家は人民のために存在する。世襲貴族は、神の怒りが人類に与えた最大の災いである」と主張した。 アントレーグ伯爵は革命の熱烈な支持者であったが、1789年にヴィルヌーヴ=ド=ベルグのバイイ管区(英語版)から、貴族身分の代表として全国三部会の議員に選ばれた。彼は国民議会の創設には反対していたが球戯場の誓いに参加し、憲法制定国民議会にも出席した。彼はまず、貴族たちに税制面での特権を放棄するよう促し、「人間と市民の権利の宣言」に賛成した。しかし、1789年10月5日、パリからやって来た敵対的な群衆がヴェルサイユ宮殿に行進した後、彼は革命の理念を放棄した。数年前に彼が誘惑しようとしたとされる王妃マリー・アントワネットが命を狙われているのを見て愕然としたアントレーグは、一転してブルボン王家を擁護した。そして同じく反革命派の貴族であるブーティエール・シャヴィニー侯爵(フランス語版)やド・カザレス(英語版)と協力して貴族の特権を主張し、ネッケル財務長官の借入計画に反対した。彼はファヴラ侯爵と共に、民衆によって監禁されていた王室をチュイルリー宮殿から脱出させる計画を立てた。ファヴラ侯爵はその年の12月に逮捕され、アントレーグ伯爵も糾弾された。1790年2月にファヴラ侯爵が処刑されるとアントレーグ伯爵はフランスを脱出し、亡命貴族(エミグレ)となった。
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