フランスへの帰国
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「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「フランスへの帰国」の解説
1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、イギリスを後にした。4月29日、コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと再会し泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。 パリに戻ってからのマリー・テレーズは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたテュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。そこにはナポレオンによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で呼びつけにして相手を怒らせた。新興貴族たちは、マリー・テレーズがイギリスの田舎くさい格好でパリに戻ったと嘲笑した。ルイ18世は「人前でむすっとした顔をしないこと、垢抜けない服装をしないこと、人前ではせめて紅ぐらいつけなさい」と妻を叱った[要出典]。マリー・テレーズはまた、帝政下で成功したかつての仲間も嫌った。マリー・アントワネットの侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していたと知ると、面会も拒んだ。反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。 ルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は1805年に発見されていたが、ルイ・ジョゼフの遺体はマリー・テレーズが帰国後も見つからなかった。亡命時代からルイ・シャルルだという人間が現れてはマリー・テレーズに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じたことはない。しかし、弟の生存を確かめるべく、12月13日にかつての弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪ねた。シモン夫人は、ルイ・シャルルはタンプル塔で死んでおらず「1802年に自分を見舞いに来た」と答えた。翌1815年1月27日、パリ市立病院を見舞っていたマリー・テレーズは、ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ・ジャン・ペルタン医師を紹介された。2日後、ペルタン医師は再び彼女と会い、ルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えたが、その後何度も手渡すことに失敗し、1825年5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託した。1826年9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠された。
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フランスへの帰国
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「ポール・ゴーギャン」の記事における「フランスへの帰国」の解説
1893年8月、ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けた。『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』、『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)』などである。1894年11月にポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた展覧会はある程度の成功を見せ、展示された40のうち11点が相当の高値で売れた。ゴーギャンは、画家がよく訪れるモンパルナス地区の外れにアパルトマンを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開いた。この頃インド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、『ジャワ女アンナ(カタルーニャ語版)』のモデルとしている。 11月の展覧会の成功にもかかわらず、ゴーギャンはデュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は明らかでない。これによって、ゴーギャンはアメリカ市場への売り込みの機会を失った。1894年初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みた。その年の夏には、ポン=タヴァンを再訪した。翌1895年、パリで作品の売立てを行ったがこれも失敗に終わった。同年3月、画商アンブロワーズ・ヴォラールが自分の画廊でゴーギャンの作品を展示したが、この時は2人は取引関係の合意には至らなかった。 また、同年4月に開会した国民美術協会のサロンに、冬の間に陶芸家エルネスト・シャプレの協力を得て焼き上げていた陶製彫像『オヴィリ(英語版)』を提出した。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説がある。 この頃には、妻メットとの破局は決定的になっていた。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けた。ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初妻に一銭も渡そうとしなかった。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしなかった。 『ジャワ女アンナ』1893年。個人コレクション。 『マハナ・ノ・アトゥア(イタリア語版)(神の日)』1894年。シカゴ美術館。 『ナヴェ・ナヴェ・モエ(ポーランド語版)』1894年。エルミタージュ美術館。 『オヴィリ』1894-95年。オルセー美術館。 『ナヴェ・ナヴェ・ファヌ(かぐわしき大地)』、『ノア・ノア』の木版画、1894年。アートギャラリー・オブ・オンタリオ。
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