フランスへの帰国〜裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)
「アンリ・フネ」の記事における「フランスへの帰国〜裁判」の解説
ベルリン市街戦で足を負傷していたフネは、ソビエト赤軍の捕虜収容所に入って間もなくベルリン北部の病院へ送られた。 しかし数日後、退院して収容所に戻る途中にフネは脱走に成功した(驚くべきことに、あるロシア人の住民がフネに民間人の衣服を与えて脱走の手助けをした)。それからフネはベルリン南部においてフランス人の本国帰還グループに加わり、ノール県ヴァランシエンヌ (Valenciennes) 経由でフランスへ帰国した。 ところが、その際にフネは左腕に彫っていた血液型の刺青(SS隊員の特徴)を発見され、現地のフランス軍兵士によって逮捕された。フネを逮捕した兵士はフネに対し、「この文字は人殺しの、それも最も危険な人殺しの印だ」と言った。 1年後(1946年)、戦時中の対独協力者を対象とした裁判が行われ、フネは検察官から「君は自分でしたことを晦いているかね?」と尋ねられた。1940年5月〜6月、宿敵ドイツがフランスへ侵攻した際にフランス陸軍中尉としてドイツ軍と勇敢に戦って2度負傷し、フランスの軍事勲章を授与されたが、フランス敗戦から数年後に宿敵ドイツの武装親衛隊へ志願入隊して東部戦線でソビエト赤軍(共産主義の軍勢)と戦ったアンリ・フネは答えた。 「戦争が別の結果に終わったときに、わたしが晦いていると言ったら、あなたは信じますか? 今ここでわたしが晦いていると言ったら、わたしは嘘つきか、腰抜けであるということになってしまう」 この時のフネの所見によると、「陪審員のほとんどが共産党員であったが、かれらはわたしの答えに腹をたてはしなかったらしい」。そして、フネに言い渡された判決は死刑ではなく重労働(懲役)20年の刑であった。 懲役20年の判決を受けたアンリ・フネはピュイ=ド=ドーム県リオン (Riom) 、カルヴァドス県カーン (Caen) 、アンジュー地方シノン近郊のフォントヴロー (Fontevraud) などの刑務所で服役した。 しかし、1947年頃(西ヨーロッパ諸国においてソビエト連邦(共産主義の本丸)の脅威が明らかになりつつあった時期(冷戦の序盤))からフランス国内で徐々に恩赦が行われ始め、フネは1949年12月付で刑務所から釈放された。
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