史実との比較
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基本的に778年のロンスヴォーの戦いをめぐる歴史的事実を元にしているが、物語と歴史の事実が異なる部分もある。例えば、歴史上では戦う相手がバスク人とガスコーニュ人であったのに対し、詩の中ではイスラム教徒に変えられている。その他にも多くの点で恣意的に歴史とは違えられたところがあるとされる。ただしイスラム帝国の一部である後ウマイヤ朝との戦争は史実で、『ローランの歌』でもアブド・アッラフマーン1世の戦闘の勝利を賞賛している部分がある。 これは、11世紀という十字軍の時代にイスラム教徒に対抗するキリスト教徒を勇気づける役割をこの歌が担っていたからであり、歴史的事実とは反するながらも、中世の騎士道精神を示す典型的な例になっていると考えられている。 11世紀後半までには、現代のローランの歌は出来上がっていた。しかし伝説によってふくらまされた部分が大きくなって、歴史的な考察は殆ど姿を消していた。この戦いの時点で、シャルルマーニュは36歳であるが、歌の中では白髭を垂らし、終わりなき戦いに長けた人物とされている。 シャルルマーニュの伝記作者であるアインハルトはシャルルマーニュの同時代の人物で、伝記作者のみならず、顧問役としてシャルルマーニュの王子のルイ1世につかえた人物である。アインハルトは、スペイン遠征からフランスへの帰国の途に就いたシャルルマーニュ軍の後衛が、軽装備で有利な地点から襲ったバスク人のために殲滅の悲劇にあったことを伝え、戦死した将の一人としてブリタニア辺境伯(Brittannici limitis praefectus)フルオドランド(Hruodland)の名を挙げている。史実では、シャルルマーニュはサラセン人支配下のサラゴサを包囲こそしたが攻略しておらず、彼は四季のうちのいずれか、あるいは夏にのみそこに留まり、その後ピレネーに退却したらしい。アインハルトの著作には、ロンスヴォー峠という名前ではなく、ただピレネー山脈の峠とのみ書かれている。また、シャルルマーニュがイベリア半島に行ったのは、サラセン人の大使からの招きで、戦いの終結と反乱軍蜂起の援助を求められたためで、戦争のためにイベリア半島に赴いたのではなかった。さらに歴史的には、十二人の勇将の名も、当然ガヌロンの名前も確認されていない。 アナレ・レグニ・フランコム(en:Royal Frankish Annals)も、シャルルマーニュの後衛部隊の虐殺や、ロンスヴォーという記述はなく、歌には登場するマルシル、バリガンという名前も出て来ない。800年に出されたアナレ・レグニ・フランコムに、バスクのゲリラ軍が、シャルルマーニュの後衛軍ではなく、全軍と戦ったという記述がみられる。 また、十二勇士は、常に同じ12名ではなく、いくつかの伝説によれば、シャルルマーニュの親友にして、最も信頼できる戦士であった。彼らのことをパラダンもしくはパラディン(Paladin)と呼ぶが、この名称はパラティーヌ(宮中伯)と同義で、イタリア語のパラティーノからの借用例であると思われる。
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史実との比較
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「グローリー (映画)」の記事における「史実との比較」の解説
映画のモデルとなったマサチューセッツ第54連隊(英語版)は(士官を除いて)完全な黒人部隊としてはアメリカ陸軍最初の正式な部隊の一つだった(最初の黒人部隊はサウスカロライナ第1義勇軍)。 映画では連隊に参加した黒人たちの多くは南部の州から逃亡してきた元奴隷であったように示唆されているが、奴隷制度から逃げて来た者も一部いたものの、実際には大部分が北部の生まれだった。 映画に登場する第54連隊のメンバーはロバート・グールド・ショー大佐を除いて実名ではない。本当の第54連隊の副連隊長はエドウィン・ハロウェル中佐(Lt. Colonel Edwin Hallowell)だった。劇中ケイリー・エルウィスによって演じられたカボート・フォーブズ少佐は彼をモデルにしている。カボート・フォーブズの名前は本当のショー大佐の別々の友人の姓と名前を組み合わせたもの。ハロウェル中佐は重傷を負いながらもワグナー要塞の戦いを乗り切り、1865年に解散するまで連隊を率いた。彼の退役時の階級は准将であった。 映画ではショーは第54連隊の指揮を執るように言われたその日に受諾しているが、実際には一度断った上で数日後に受諾した。また第54連隊に配属が決まってすぐに大佐に昇進したように描かれているが、記録によれば数ヶ月間少佐のままであった。 映画で使用された各種銃器は、2010年代現在に至るまでA.ウベルティ(英語版)やユーロアームズなどイタリアの幾つかの銃器メーカーで実弾発射可能なレプリカモデルが製造され続けており、プロップガンをまとまった数揃える事が比較的容易である。レプリカモデルが使用された事が明確に分かる描写としては、ローリンズ曹長が木箱からエンフィールドM1853を1挺ずつ取り出して黒人兵たちに下げ渡していくシーケンスで、銃身に刻まれたシリアルナンバーとみられる何らかの数字を読み上げている事が挙げられる。史実では南北戦争期の南北軍双方に輸出されたエンフィールドM1853については、英軍に納入されたものや他の仕向け地への輸出品と異なりシリアルナンバーが打刻されていない為、当時の実物であれば適当な数字を暗誦しない限りは成立しない描写となる。 ワグナー要塞攻略戦の直前、ショー大佐が旗手を指さして「この男が撃たれたら、次に誰が旗を持つのか?」と尋ねるエピソードは事実に基づく出来事だが、実際にこの質問をしたのはジョージ・クロケット・ストロング将軍(General George Crockett Strong)だった。また倒れた旗手に代わって旗を運んだのは黒人のウィリアム・ハーヴェイ・カーニー軍曹(Sergeant William Harvey Carney)だった。彼はワグナー要塞まで旗を運び、第54連隊が撤退するまで敵の砲火の下そこに留まり、傷を負いながらも苦労して自陣まで旗を持ち帰った。この功績により彼は黒人初の名誉勲章の受章者となった。 ショー大佐は結婚していたが、映画では触れられていない。 ショー大佐の最期は事実に基づいている。彼の最後の言葉は「第54連隊前進!」("Forward Fifty-fourth")であった。 映画では第54連隊の「半分以上」をワグナー要塞の戦闘で失ったと言っているが、公式記録では272人が死傷したとされている。これは第54連隊の約40%に当たる。そのうち戦死者は116人で、これは戦闘参加者の1/5未満の人数。死傷者と敵の捕虜にされた156人を合計すれば「半分以上」になる。 映画ではワグナー要塞を攻撃する連隊の左側に海があるが、これは撮影時の太陽光線の角度を考慮したためで、実際には右側が海であった。 映画では黒人兵士たちが不当に抑えられた賃金の受け取りを拒否するシーンがあるが、実際にはこの受け取り拒否は黒人兵の自発的意志によるものでなく、その事実を知ったショー大佐が黒人兵たちに示唆したものであった。また、黒人兵の間では「マサチューセッツと週7ドルに万歳だ」と給与の区別を揶揄する俗謡が流行った。 ラストで、ショーの亡骸が他の戦死者といっしょに穴に放り込まれるという、南軍によってショーを侮辱したシーンがある。実際にもこれはその目的の行為であり、後に北軍士官の遺体が返還された時においても、ショーの遺体だけは黒人兵と一緒に埋葬されたままであった。しかし後にショーの父親は「息子がそのような方法で埋葬された事を誇りに思っている」と語っている。
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