史実との比較とは? わかりやすく解説

史実との比較

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:00 UTC 版)

ローランの歌」の記事における「史実との比較」の解説

基本的に778年ロンスヴォーの戦いをめぐる歴史的事実元にしているが、物語歴史事実異な部分もある。例えば、歴史上では戦う相手バスク人ガスコーニュであったのに対し、詩の中ではイスラム教徒変えられている。その他に多くの点で恣意的歴史とは違えられたところがあるとされる。ただしイスラム帝国一部である後ウマイヤ朝との戦争史実で、『ローランの歌』でもアブド・アッラフマーン1世戦闘勝利を賞賛している部分がある。 これは、11世紀という十字軍時代イスラム教徒対抗するキリスト教徒勇気づける役割をこの歌が担っていたからであり、歴史的事実とは反するながらも、中世騎士道精神を示す典型的な例になっている考えられている。 11世紀後半までには、現代ローランの歌出来上がっていた。しかし伝説によってふくらまされ部分大きくなって、歴史的な考察は殆ど姿を消していた。この戦い時点で、シャルルマーニュ36歳であるが、歌の中で白髭垂らし終わりなき戦い長けた人物とされている。 シャルルマーニュ伝記作者であるアインハルトシャルルマーニュ同時代の人物で、伝記作者のみならず顧問役としてシャルルマーニュ王子ルイ1世つかえた人物である。アインハルトは、スペイン遠征からフランスへの帰国途に就いたシャルルマーニュ軍の後衛が、軽装備で有利な地点から襲ったバスク人のために殲滅悲劇にあったことを伝え戦死した将の一人としてブリタニア辺境伯(Brittannici limitis praefectus)フルオドランド(Hruodland)の名を挙げている。史実では、シャルルマーニュサラセン人支配下サラゴサ包囲こそしたが攻略しておらず、彼は四季のうちのいずれか、あるいは夏にのみそこに留まりその後ピレネー退却したらしい。アインハルト著作には、ロンスヴォー峠という名前ではなく、ただピレネー山脈の峠とのみ書かれているまた、シャルルマーニュイベリア半島行ったのは、サラセン人大使からの招きで、戦い終結反乱軍蜂起援助求められたためで、戦争のためにイベリア半島赴いたのではなかった。さらに歴史的には、十二人の勇将の名も、当然ガヌロンの名前も確認されていない。 アナレ・レグニ・フランコム(en:Royal Frankish Annals)も、シャルルマーニュ後衛部隊虐殺や、ロンスヴォーという記述はなく、歌には登場するマルシル、バリガンという名前も出て来ない。800年出されたアナレ・レグニ・フランコムに、バスクゲリラ軍が、シャルルマーニュ後衛ではなく全軍戦ったという記述みられるまた、十二勇士は、常に同じ12ではなくいくつかの伝説によればシャルルマーニュ親友にして、最も信頼できる戦士であった。彼らのことをパラダンもしくはパラディン(Paladin)と呼ぶが、この名称はパラティーヌ(宮中伯)と同義で、イタリア語パラティーノからの借用例であると思われる

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史実との比較

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 02:17 UTC 版)

グローリー (映画)」の記事における「史実との比較」の解説

映画のモデルとなったマサチューセッツ54連隊英語版)は(士官除いて)完全な黒人部隊としてはアメリカ陸軍最初正式な部隊一つだった(最初黒人部隊サウスカロライナ第1義勇軍)。 映画では連隊参加した黒人たちの多く南部の州から逃亡してきた元奴隷であったように示唆されているが、奴隷制度から逃げて来た者も一部いたものの、実際に大部分北部生まれだった。 映画に登場する第54連隊メンバーロバート・グールド・ショー大佐除いて実名ではない。本当の第54連隊の副連隊長はエドウィン・ハロウェル中佐(Lt. Colonel Edwin Hallowell)だった。劇中ケイリー・エルウィスによって演じられたカボート・フォーブズ少佐は彼をモデルにしている。カボート・フォーブズの名前は本当ショー大佐の別々の友人の姓と名前を組み合わせたもの。ハロウェル中佐重傷負いながらもワグナー要塞戦い乗り切り1865年解散するまで連隊率いた彼の退役時の階級准将であった映画ではショーは第54連隊指揮執るように言われその日受諾しているが、実際に一度断った上で数日後受諾した。また第54連隊配属決まってすぐに大佐昇進したように描かれているが、記録によれば数ヶ月少佐のままであった映画使用され各種銃器は、2010年代現在に至るまでA.ウベルティ(英語版)やユーロアームズなどイタリア幾つかの銃器メーカー実弾発射可能なレプリカモデル製造され続けており、プロップガンまとまった揃える事が比較的容易である。レプリカモデル使用された事が明確に分かる描写としては、ローリンズ曹長木箱からエンフィールドM1853を1挺ずつ取り出して黒人兵たちに下げ渡していくシーケンスで、銃身刻まれシリアルナンバーとみられる何らかの数字読み上げている事が挙げられる史実では南北戦争期の南北双方輸出されエンフィールドM1853については、英軍納入されたものや他の仕向け地への輸出品異なりシリアルナンバー打刻されていない為、当時実物であれば適当な数字暗誦しない限り成立しない描写となる。 ワグナー要塞攻略戦直前ショー大佐旗手指さして「この男が撃たれたら、次に誰が旗を持つのか?」と尋ねエピソード事実に基づく出来事だが、実際にこの質問をしたのはジョージ・クロケット・ストロング将軍General George Crockett Strong)だった。また倒れた旗手に代わって旗を運んだのは黒人のウィリアム・ハーヴェイ・カーニー軍曹Sergeant William Harvey Carney)だった。彼はワグナー要塞まで旗を運び、第54連隊撤退するまで敵の砲火の下そこに留まり、傷を負いながらも苦労して自陣まで旗を持ち帰った。この功績により彼は黒人初の名誉勲章の受章者となったショー大佐結婚していたが、映画では触れられていないショー大佐最期事実基づいている。彼の最後の言葉は「第54連隊前進!」("Forward Fifty-fourth")であった映画では第54連隊の「半分以上」をワグナー要塞戦闘失ったと言っているが、公式記録では272人が死傷したとされている。これは第54連隊の約40%に当たる。そのうち戦死者116人で、これは戦闘参加者の1/5未満人数死傷者と敵の捕虜にされた156人を合計すれば「半分以上」になる。 映画ではワグナー要塞攻撃する連隊左側に海があるが、これは撮影時太陽光線の角度考慮したためで、実際に右側が海であった映画では黒人兵士たち不当に抑えられ賃金受け取り拒否するシーンがあるが、実際にはこの受け取り拒否黒人兵の自発的意志よるものでなく、その事実を知ったショー大佐黒人兵たちに示唆したものであったまた、黒人兵の間では「マサチューセッツと週7ドル歳だ」と給与区別揶揄する俗謡流行ったラストで、ショー亡骸が他の戦死者いっしょに穴に放り込まれるという、南軍によってショー侮辱したシーンがある。実際にもこれはその目的行為であり、後に北軍士官遺体返還され時においても、ショー遺体だけは黒人兵と一緒に埋葬されたままであった。しかし後にショー父親は「息子そのような方法埋葬された事を誇り思っている」と語っている。

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