青年期、そしてデビューへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:10 UTC 版)
「ロリン・マゼール」の記事における「青年期、そしてデビューへ」の解説
ピッツバーグ大学在学中は言語学、数学及び哲学を専攻する一方、ピッツバーグ交響楽団においてヴァイオリニストとして活躍し、またアート弦楽四重奏団を結成した。1952年、フルブライト奨学金の試験に合格したマゼールはイタリアに渡り、バロック音楽を研究する日々を送る事になる。その翌年カターニアでヨーロッパデビューを飾り、1960年にはバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー、フェルディナント・ライトナーと交代で『ローエングリン』を指揮した。1963年にはザルツブルク音楽祭にデビュー、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、ヴァイオリンを弾きながら指揮をする「弾き振り」で話題となった(モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番)。 1965年にはベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団(旧西ベルリン、現在はベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督(どちらも早世したフェレンツ・フリッチャイの後任)に就任。1972年にはジョージ・セル死去後空席となっていたクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任した。1982年にはウィーン国立歌劇場の総監督に昇りつめ、また1980年からボスコフスキーの後を次いでウィーンフィル・ニューイヤーコンサートの指揮者を務めるなど(1980年から1986年までの毎年。それ以後もたびたび出演して、生涯登場回数11回は、ボスコフスキー、クラウスに次ぐ史上第3位。レギュラー指揮者としては現在のところ最後)順調な指揮者人生を極めつつあった。ニューイヤーコンサートは現在年ごとに指揮者を選任するスタイルとなっており、レギュラー指揮者は今のところマゼールが最後であるが、前任のボスコフスキー、クレメンス・クラウス、ヨゼフ・クリップスがいずれも生粋のウィーン生まれでウィンナワルツを得意としていたのに比べ、外国人でこうした曲種から縁遠いイメージがあったマゼールがこの座に迎えられたことは意外性をもって受け止められた。しかし、あえてこの人選に踏み切ったウィーンフィルからの強い信頼にこたえ、同コンサートをいっそう国際的に飛躍させるために貢献した。マゼールの7年間を経て、同コンサートは毎年指揮者が替わる輪番制に移行したが。マゼールは移行後も4回登板、計11回指揮をつとめている。これはボスコフスキーに次ぐ数字である。
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