高まるムスリムの圧力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:24 UTC 版)
「アンティオキア公国」の記事における「高まるムスリムの圧力」の解説
1164年、ヌールッディーンの部下シールクーフがファーティマ朝エジプトへ、内紛とエルサレム王国によるエジプト攻撃から救援すべく向かったが、その間シリアに残ったヌールッディーンを攻めようとした十字軍国家連合軍は大敗し、ボエモン3世もしばらく捕虜となってしまった。 シールクーフの戦いは、ファーティマ朝とエルサレム王国が連合軍を組んでしまうことで長い戦いになった。ようやく戦いを制したシールクーフが急死し、甥のサラディンがファーティマ朝を滅ぼしアイユーブ朝を確立する。これはヌールッディーンの疑念を招いたが、彼は間もなく没し、以後サラディンがエジプト・シリアのムスリムを統合することになる。彼は1187年のハッティンの戦いに勝利し、エルサレムを占領して十字軍国家からほとんどの都市を奪うが、イタリアの都市国家(ジェノヴァ共和国、ピサ共和国、ヴェネツィア共和国)の艦隊と第3回十字軍の援助を受けてアンティオキア公国はアンティオキア市と若干の属領を辛うじて保った。
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