ミヒャエル・リッペルトとは? わかりやすく解説

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ミヒャエル・リッペルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/16 14:50 UTC 版)

ミヒャエル・リッペルト
Michael Lippert
生誕 1897年4月24日
ドイツ帝国
バイエルン王国シェーンヴァルト
死没 1969年9月1日
西ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州ヴッパータール
所属組織 ドイツ帝国陸軍
* バイエルン陸軍英語版
バイエルン州警察
武装親衛隊
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 親衛隊大佐(親衛隊)
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ミヒャエル・ハンス・リッペルト(Michael Hans Lippert、1897年4月24日 - 1969年9月1日)は、ナチス・ドイツ親衛隊員。最終階級は親衛隊大佐ザクセンハウゼン強制収容所初代所長。突撃隊幕僚長エルンスト・レームの処刑を実行した人物として知られる。

リュシアン・リッペール武装親衛隊ワロン人部隊SS突撃旅団「ヴァロニエン」初代旅団長)とは姓の綴りが同じであるが血縁は無い。

経歴

オーバーフランケンシェーンヴァルトに生まれる。実業補習学校(Fortbildungsschule)を出た後、第一次世界大戦ではバイエルン王国軍の騎兵連隊に志願して西部戦線、のち東部戦線で戦う。二級鉄十字章を受けた。1917年10月に故郷へ帰り、パイロットとなるべくノイシュタット第二航空学校へ入学した。1918年10月にパイロット資格を得たが、出撃の前に戦争は終わってしまった。

戦後しばらく陶磁器工場で働いていたが、1920年からレーゲンスブルクバイエルン州警察に入隊し、1929年まで勤務した。この間の1921年10月に結婚、子供を二人儲けた。

1930年6月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に入党(党員番号246,989)、さらに1931年3月10日に親衛隊に入隊(隊員番号2,968)。1933年、ダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケの下で副所長を務めた。

1934年の長いナイフの夜事件においては、エルンスト・レームの処刑を命じられたアイケに同行し、レームが監禁されていたミュンヘンのシュタンデルハイム刑務所を訪れた。2人は総統命令に基づき、一発だけ弾丸の入った銃をレームの側に置いて自殺の機会を与えた。しかしいつまで経っても銃声がしなかったため、レームの独房に戻ったアイケはリッペルトに射殺を命令した。彼は2発撃ち込んだがまだ息があったため、更にもう1発撃ち殺害したが、これがリッペルトとアイケのどちらよるものかは不明である。

その後、リッペルトは1934年9月に親衛隊中佐に昇進し、1936年7月から1936年10月にかけてザクセンハウゼン強制収容所で所長を務めた。

1939年、第3SS装甲師団「トーテンコップ」の予備役将校となる。

1941年9月、フラマン人義勇兵から成るSS義勇部隊「フランダーン」の指揮官に着任したが、1942年4月20日には離任して別の部隊に異動した。その後、1942年7月に重傷を負って病院に送られ、戦傷章銀章を授与された。

負傷回復後の1943年1月から2月にかけて、フランスで編成されたばかりの第10SS装甲師団「フルンツベルク」の師団長に就任。1943年4月20日には親衛隊大佐に昇進し、SS義勇擲弾兵旅団 「ラントシュトーム ネーダーラント」第83連隊長となる。敗戦までこの職にあった。

1950年、オランダアーネムにおいて、1945年に行ったオランダの市民虐殺の罪について裁判にかけられ、懲役10年の刑に処された。しかし1953年には西ドイツに強制送還された。1956年にはヨーゼフ・ディートリヒとともに長いナイフの夜でのレーム以下突撃隊幹部の殺人罪に問われ、懲役18か月の刑に処された。ヴッパータールで死去。

叙勲




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