大粛清下のウクライナ
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「ホロドモール」の記事における「大粛清下のウクライナ」の解説
「大粛清」を参照 ウクライナ民族主義への弾圧も強化され、1930年に「民族主義的富農主義」と批判されたマトヴォー・ヤヴォールスキー(ロシア語版)は、1933年3月に逮捕され、強制収容所に連行され、1937年に銃殺された。 共産党党員でも弾圧は免れなかった。ウクライナ共産党でも1932年に粛清が実施され、多くの党員が姿を消しており、1933年1月にスターリンは自分の直属部下をモスクワから派遣してきた。1月7日には、穀物調達の遅れはウクライナの「階級の敵」を地元の党員が容認したためとされ、1月24日に全ソ中央委員会は、調達の失敗は階級的警戒を怠ったウクライナ共産党の責任だと断言し、ポーストィシェフをウクライナ共産党第二書記・ハリコフ州第一書記に任命した。ポーストィシェフは地区委員会の書記237人と議長249人を更迭した。1933年2月のウクライナ中央委員会大会でコシオールは、コルホーズでは「階級の敵」が虚偽報告しているとし、村の党幹部たちはサボタージュを大目にみていると非難した。 ウクライナ共産党では党の方針に抵抗すれば粛清されるので、「沈黙の壁」が作られた。ウクライナ共産党のシュームスキーやスクルィープニクの書記なども「ポーランドの地主やドイツのファシスト」から献金されていたと告発され、1933年3月1日にはスクルィープニク(スクリプニク)がウクライナ教育人民委員を解任された。 1933年4月27日には、ウクライナ科学アカデミーのウクライナ語研究所がブルジョワ民族主義の温床として攻撃され、やがて7人の言語学者が逮捕された。1933年5月から数ヶ月間、多数の編集者、文学者、知識人の逮捕と自殺が相次いだ。 1933年6月10日、ポーストィシェフは、これらの反革命的知識人はソビエト政府打倒をめざし、穀物の調達困難にも責任があり、スクルィープニクは彼らを公然と擁護してきたと非難した。スクリプニクは「ウクライナ化政策」を推進したことで「自己批判」を強要されたが、それを拒否して1933年7月7日に自殺した。スクリプニク没後の11月、共産党は、生前のスクリプニクは、ウクライナ語の正字法に新しい記号を入れようとしていたが、これはポーランドによるウクライナ併合計画を支援するものだったと攻撃され、「反革命的な堕落した民族主義者」との烙印が押された。 1933年6月、スターリン派のウクライナ共産党政治局員D.マヌゥイーリスキーはウクライナのアカデミーや研究所は「階級の敵」のアジトになっていると告発した。農業アカデミー所長らは粛清され、強制収容所に連行された。シェフチェンコ文学研究所の所長ら5人は銃殺された。他にも多くの研究所で粛清が実施され、ウクライナ哲学研究所のヌィルチュク教授は「トロツキスト民族主義者テロリストセンター」という存在しない架空の組織の所長にされた。 NKVD長官エジェフは、1933年7月30日に00477号命令「クラーク、犯罪者その他の反ソ分子の抑圧について」を布告し、各地域でNKVD、検事、共産党代表の3者によるトロイカ審判で、処刑か収容所おくりかを即決できるようにした。最初の命令で26万8950人が逮捕、うち7万5950人が銃殺され、19万3000人が収容所へ送られた。最終的には、合計で76万7397人がトロイカで裁かれ、38万6798人が銃殺されたが、処刑理由は「潜在敵」であるからというだけであった。 1933年10月、演劇界でもベレジル劇場のレス・クルバスが民族主義者として解任されて逮捕、強制収容所で死亡した。ハリコフのチェルヴォノ・ザヴォドスク劇場では画家3人が民族主義者として銃殺された。 1933年10月15日までにウクライナの共産党員12万人が審査(粛清)され、2万7500人が「階級の敵」として除名された。ポーストィシェフは「教育人民委員会から2000人の民族主義分子と300人の科学者や作家を排除できた。8つのソビエト中央機関から200人以上の民族主義分子を粛清。協同組合と穀物備蓄関係者からは2000人以上が粛清できた」と11月19日に報告した。 1934年1月、OGPU長官バリーツキーはまだ他の陰謀が暴かれていないと述べ、2月にはポーストィシェフは、「われわれは過去一年で民族主義的反革命を根絶してきた」と自慢したが、粛清はまだ続いた。1934年12月のキーロフ暗殺後、大粛清が開始するが、キエフでも「白軍テロリスト」として、ドミトロー・ファルキフスキー、グリゴーリー・コシンカら28人の文学者、詩人オレークサ・ヴリズコが殺害され、1935年にも劇作家ミコーラ・クゥリシュが、1936年1月には文学者ミコーラ・ゼーロフのグループが粛清された。大粛清によってウクライナの著述家246人のうち204人が、言語学者84人のうち62人が、消された。このほか、ウクライナ気象庁職員が虚偽の天気予報を出したとして逮捕され、1933年3月には、サボタージュ罪で35人が処刑、40人が収監された。さらに、OGPUは家畜が死んだのは獣医の責任であるとし、1933年から1937年に獣医100人が銃殺された。 大粛清はウクライナのみならず、ソ連全土に及び、政敵だけでなく、政敵となる可能性のある者として、スターリンの忠実な側近や親族にさえもおよんだ。ペレストロイカ後に公開された確認できる情報に限れば、68万余が処刑され、16万余が獄死し、合計84万人余が殺害され、またNKVD資料では74万5220人が処刑された。しかし、これ以外の犠牲者も含めると、その犠牲の総数は800万~1000万人とも推計される。
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