大粛清下のウクライナとは? わかりやすく解説

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大粛清下のウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)

ホロドモール」の記事における「大粛清下のウクライナ」の解説

大粛清」を参照 ウクライナ民族主義への弾圧強化され1930年に「民族主義的富農主義」と批判されたマトヴォー・ヤヴォールスキー(ロシア語版)は、1933年3月逮捕され強制収容所連行され1937年銃殺された。 共産党党員でも弾圧免れなかった。ウクライナ共産党でも1932年粛清実施され多く党員姿を消しており、1933年1月スターリン自分直属部下モスクワから派遣してきた。1月7日には、穀物調達の遅れはウクライナの「階級の敵」を地元党員容認したためとされ、1月24日に全ソ中央委員会は、調達失敗階級的警戒怠ったウクライナ共産党責任だと断言し、ポーストィシェフをウクライナ共産党第二書記ハリコフ州第一書記任命した。ポーストィシェフは地区委員会書記237人と議長249人を更迭した。1933年2月ウクライナ中央委員会大会でコシオールは、コルホーズでは「階級の敵」が虚偽報告しているとし、党幹部たちはサボタージュ大目にみていると非難したウクライナ共産党では党の方針抵抗すれば粛清されるので、「沈黙壁」作られた。ウクライナ共産党のシュームスキーやスクルィープニクの書記なども「ポーランド地主ドイツファシスト」から献金されていたと告発され1933年3月1日にはスクルィープニク(スクリプニク)がウクライナ教育人民委員解任された。 1933年4月27日には、ウクライナ科学アカデミーウクライナ語研究所ブルジョワ民族主義温床として攻撃され、やがて7人の言語学者逮捕された。1933年5月から数ヶ月間、多数編集者文学者知識人逮捕と自殺相次いだ1933年6月10日、ポーストィシェフは、これらの反革命的知識人ソビエト政府打倒をめざし、穀物調達困難に責任があり、スクルィープニクは彼らを公然と擁護してきたと非難した。スクリプニクは「ウクライナ化政策」を推進したことで「自己批判」を強要されたが、それを拒否して1933年7月7日自殺した。スクリプニク没後11月共産党は、生前のスクリプニクは、ウクライナ語正字法新し記号入れようとしていたが、これはポーランドによるウクライナ併合計画支援するのだった攻撃され、「反革命的な堕落した民族主義者」との烙印押された。 1933年6月スターリン派ウクライナ共産党政治局員D.マヌゥイーリスキーはウクライナアカデミー研究所は「階級の敵」のアジトになっている告発した農業アカデミー所長らは粛清され強制収容所連行された。シェフチェンコ文学研究所の所長ら5人は銃殺された。他にも多く研究所粛清実施されウクライナ哲学研究所のヌィルチュク教授は「トロツキスト民族主義者テロリストセンター」という存在しない架空の組織所長にされた。 NKVD長官エジェフは、1933年7月30日に00477号命令クラーク犯罪者その他の反ソ分子抑圧について」を布告し各地域NKVD検事共産党代表の3者によるトロイカ審判で、処刑収容所おくりかを即決できるようにした。最初命令268950人が逮捕、うち75950人が銃殺され193000人が収容所送られた。最終的には、合計767397人がトロイカ裁かれ386798人が銃殺されたが、処刑理由は「潜在敵」であるからというだけであった1933年10月演劇界でもベレジル劇場のレス・クルバスが民族主義者として解任され逮捕強制収容所死亡したハリコフのチェルヴォノ・ザヴォドスク劇場では画家3人が民族主義者として銃殺された。 1933年10月15日までにウクライナ共産党員12万人審査粛清)され、27500人が「階級の敵」として除名された。ポーストィシェフは「教育人民委員会から2000人の民族主義分子300人の科学者作家排除できた。8つソビエト中央機関から200人以上の民族主義分子粛清協同組合穀物備蓄関係者からは2000人以上が粛清できた」と11月19日報告した1934年1月OGPU長官バリーツキーはまだ他の陰謀暴かれていない述べ2月にはポーストィシェフは、「われわれは過去一年民族主義的反革命根絶してきた」と自慢したが、粛清はまだ続いた1934年12月キーロフ暗殺後大粛清開始するが、キエフでも「白軍テロリスト」として、ドミトロー・ファルキフスキー、グリゴーリー・コシンカら28人の文学者詩人オレークサ・ヴリズコが殺害され1935年にも劇作家ミコーラ・クゥリシュが、1936年1月には文学者ミコーラ・ゼーロフのグループ粛清された。大粛清によってウクライナ著述家246人のうち204人が、言語学者84人のうち62人が、消された。このほか、ウクライナ気象庁職員虚偽天気予報出したとして逮捕され1933年3月には、サボタージュ罪で35人が処刑40人が収監された。さらに、OGPU家畜死んだのは獣医責任であるとし、1933年から1937年獣医100人が銃殺された。 大粛清ウクライナのみならずソ連全土に及び、政敵だけでなく、政敵となる可能性のある者として、スターリン忠実な側近親族にさえもおよんだペレストロイカ後公開され確認できる情報に限れば、68万余処刑され16万余獄死し、合計84万人余が殺害され、またNKVD資料では745220人が処刑された。しかし、これ以外の犠牲者含めると、その犠牲総数8001000万人とも推計される。

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