逮捕と自殺
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そののち、中野は東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策する戦術に切替えたが、東條の側の打つ手は中野の予想以上に早く、まず1943年(昭和18年)9月6日、三田村武夫が警視庁特高部に身柄拘束される(中野正剛事件)。警視庁は10月21日に東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名を身柄拘束する中で中野も拘束された。東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。その後、東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態におかれ、その後の議会欠席を約束させられたという説がある(戸川猪佐武『東條内閣と軍部独裁』講談社)。 そして同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決、隣室には見張りの憲兵2名が休んでいた。自決の理由はいまだに不明で、一説には、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われている。また自身がおこなった東久邇宮の首相担ぎ出し工作について、東條サイドに調査攻撃されることにより、皇族に累が及ぶことを懸念していたからだいう説もある。 自刃する直前に中野はムッソリーニやヒトラーからもらった額をはずし、机上に楠木正成の像と『大西郷伝』を置いたと伝えられている。自決の数時間前、四男泰雄に「千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼」と色紙に書き、憲兵の目の前で渡している。遺書には「俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな」と書き残されていた。 詳細は「中野正剛事件」を参照
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逮捕と自殺
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「ジャック・ウンターベガー」の記事における「逮捕と自殺」の解説
グラーツの警察は最終的にウンターベガーの逮捕状を発行するのに十分な証拠を集めた。しかし、警察がウンターベガーの自宅を訪れたときには、彼は既にそこを離れていた。当局はウンターベガーとその恋人Bianca Mrakを追跡し、その手はスイスやフランス、アメリカにまで及んだ。最終的に1992年2月27日、フロリダ州マイアミの連邦保安官がウンターベガーを逮捕した。ウンターベガーは逃亡中、オーストリアのメディアを呼び、自身が無実であると説得しようとした。1992年5月27日にオーストリアへ引き渡され、11件の他殺事件で起訴された。そのうちの1件はプラハで、3件はロサンゼルスで発生したものである。陪審は6:2の多数決により9件の殺人で有罪を認める評決を下した (当時のオーストリアの法律では有罪とするのにこれで十分だった)。オーストリアの精神科医Reinhard Hallerは自己愛性パーソナリティ障害と診断し、1994年6月20日に自身の所見を法廷で証言した。1994年6月29日、ウンターベガーは仮釈放無しの終身刑の判決を言い渡された。 その夜、グラーツ・カルラウ刑務所(ドイツ語版)に収監されていたウンターベガーは、トラックスーツのズボンの紐と靴紐をより合わてロープにし、それを用いて縊死した。その結び方はすべての売春婦殺害で見られたものと同じだった。 ウンターベガーは自殺する前に上訴する意思があると主張していた。そのため、オーストリアの法律では、彼の有罪を認める評決は法廷により再調査や承認が行われず、死後に法的拘束力がないと見なされた。
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