1933年の粛清
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1932年12月11日に、スターリンは党員が増えすぎたことを理由に、新規入党を停止した。1933年初めには、共産党の総粛清が決定。点検は1933年秋に開始された。1933年からの共産党の総粛清では、入党したてのものが「消極分子」として除名された。 こうして1929年以来4年ぶりの全党チーストカ(粛清)が行われたが、このチーストカを大粛清(大テロル)の序曲とみなすか、たんに党員の乱雑さを正した綱紀粛正であったとみなすかで見解が分かれる。ただし、全党チーストカ(粛清)と同時並行して「反革命分子」の摘発・粛清も行われた。1933年1月、党中央委員会は、エイスモント、トルマチョフ、スミルノフらの「反共産党グループ」を摘発し、1933年3月には、農業機構で「反革命分子」が摘発され、35人が銃殺され、また経済危機の原因をイギリス人の「反革命分子」とするメトロ=ヴィッカース事件(Metro-Vickers Affair)も起きた。
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